松山市の牧師で友人のアキさんから「モッテル・チャートを買ったのだが意味が分からないので解説してほしい」と依頼されたことが、そもそもの始まりでした。モッテル・チャートは中川健一師のハーベスト・タイム・ミニストリーズが販売している下敷きのような1枚もので、ディスペンセーション神学のエッセンスが記載されています。でも、チャートを買っただけでディスペンセーション神学の全体像を理解するのは、なかなか困難です。
私に白羽の矢が立ったのは、私がハーベスト聖書塾で組織神学を学んでいるからで、聖書塾のカリキュラムの中にはディスペンセーション神学も含まれています。つまり、中川門下なんだから、お前が適任じゃなければ誰が解説するのだ、という訳です。
以下は、2020年8月8日に、松山市で開かれたディスペンセーション神学解説講座を採録したものです。複数の牧師さんや信徒の皆さんに、ライブ・中継・録音の形でお聞き頂きました。長いので、分割して掲載します。
余談ですが、アキさんから「講義のタイトルを決めてほしい」と言われた際「『夏季特別セミナー・ディスペンセーション神学を解説する』とか謳っても、誰も興味持たないだろうな」と思ったので、「ヤマサキ夏のパンまつり」で投げてみたんですが、妻からNGが出ました。白いお皿は当たらないけど白い衣がもれなくついてきます、みたいな(笑)。10月とか11月開催なら、「ヤマサキ アキ(秋)のパンまつり」でさらに良かったんですけどね(笑)。
ディスペンセーションは、文語訳聖書で「経綸」と訳されているんですが、ほとんど死語か古語で、経綸と聞いても自転車の競走しか思い浮かばない。むしろ、そっちの競輪なら松山にもあるので、二つのケイリンを引っかけて、「松山ケイリンセミナー」としてみました。
神学が見え方を定義する
これ、NASAが天の川を撮影したものなんですが、どれが天の川か分かります? 正解は全部です。
下から3番目、右にopticalと書いてあるのが、私たちの肉眼で見える天の川です。下からガンマ線、X線、一つ飛んで赤外線、上の方は電波望遠鏡を使って観測した結果、同じものを見ても見え方が違う訳です。
ディスペンセーション神学は、一つの「フィルター」です。皆さんは、これまでの信仰経験や神学の学びにおいて、違ったフィルターを既に身に着けています。私がここで強調したいのは、フィルターを替えれば見え方も変わる、ということです。誰かを否定するような意図は全くないと、強調しておきます。
聖書を読むうえでのフィルターになるのが「解釈学」です。世の中には様々な解釈学があるのですが、ディスペンセーション神学では「徹底した字義通りの解釈」が根幹となります。これが定義の第一です。
字義通りの解釈は「著者が意図した通りに読む」または「書いてあることを書いてあるままに素直に受け取る」と言い換えられます。
例えば出エジプト13:21には「【主】は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた」とあります。先日、ある牧師先生が「雲の柱、火の柱とは御言葉のことである」とおっしゃっていましたが、これは「比喩的解釈」または「象徴的解釈」または「霊的解釈」になります。字義通りの解釈では、聖書に書いてある通り、雲の柱・火の柱(のように見えるもの)がエジプトを脱出したイスラエルの民を導いた、と理解します。
最も差が現れるのが、黙示録20:2~6の「千年」です。
千年が終わるまで、これ以上諸国の民を惑わすことのないように、底知れぬ所に投げ込んで鍵をかけ、その上に封印をした。その後、竜はしばらくの間、解き放たれることになる。
また私は多くの座を見た。それらの上に座っている者たちがいて、彼らにはさばきを行う権威が与えられた。また私は、イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた人々のたましいを見た。彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。
残りの死者は、千年が終わるまでは生き返らなかった。これが第一の復活である。
この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対して、第二の死は何の力も持っていない。彼らは神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の間、王として治める。
キリスト教書店で立ち読みした注解書には「千年という数字は象徴的なものであってそれ以上の意味はない」とありました。ディスペンセーション神学は文字通り、イエスと信徒が1000年間世界を統治する、と読みます。
字義通りの解釈は比喩を排除する訳ではありません。
黙示録22:15を開きましょう。
誤った字義通りの解釈だと「では猫やタヌキは外にとどめられない=内側(天国)に入れる」となります。これは誰が考えてもおかしい。ここで言われている「犬」は神を信じない異邦人(=非ユダヤ人)に対する蔑視的表現です。「ナチスの犬(手先)め!」みたいに言うのと同じです。
基本的に字義通り読むけど、預言書や黙示録など難解な書になると比喩的、象徴的、霊的解釈に走るとか、自由主義神学の皆さんのように、創世記のある時代までは「神話」として読むとか、そうしたことをディスペンセーション神学はしません。
定義の第二は「イスラエルはイスラエル」です。
先日のメッセージである牧師先生がガラテヤ6:16「この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように」を引用して、「このイスラエルは『新しいイスラエル』で、教会のことである」とおっしゃいました。
これは、イスラエルの民がイエスをメシアとして受け入れなかった結果、その特権的地位はイスラエルの民から新約時代の教会に置き換えられた、という一つの神学的理解に基づいたもので、「置換神学」とも呼ばれます。カルヴァン派(長老派、改革派)はこの立ち位置です。
ディスペンセーション神学は、新約聖書でも「イスラエル」と書いてあれば、それはアブラハム・イサク・ヤコブの血を引くイスラエルの民だ、と理解します。置換しません。
定義の第三は「歴史を貫くテーマは神の栄光」です。
カルヴァン派神学だと「人類の救済」が歴史を貫くテーマになるのですが、ディスペンセーション神学は人類の救済を含めつつ、神の栄光を至上のものとします。
フィルターを替えると見える世界
以上の三つの定義、
①徹底した字義通りの解釈
②イスラエルはイスラエル
③神の栄光
--を一つのフィルターとして聖書を読み込むとどうなるか。その結果導き出されるのが「聖書には『八つの契約と七つの時代区分』がある」ということです。ただし、神学者によって契約の数も時代区分の数も違いますので注意してください。ここでは、代表的な見解の一つとして「7と8」を採用しておきます。
それらディスペンセーション神学のエッセンスを凝縮したのが、お手元のモッテル・チャートです。モッテルさんというユダヤ人神学者が作りました。一番下に、この三つの定義について書いてありますよね。
でも、このチャートを見ても分からないでしょ(笑)?
そこで、私が日本人向けにアレンジした、こちらのチャートを見てください。
日本史でも江戸時代とか明治時代とか、時代区分がありますよね。「何によって時代を区分するか」については、さまざまな定義がありますが、まずこのように言って差し支えないと思います。
「統治者が変われば統治のあり方が変わるし、その根幹をなす統治ルールも変わる」
統治のあり方と統治ルールは不可分のもので、それらの違いをもって、〇〇時代と認定する訳です。
武家諸法度や大日本帝国憲法が今の私たちに適用されることはありません。それは、一つの時代が終わってルールが変わったからです。現代でちょんまげを結って帯刀して歩いたら、奇異の目で見られて銃刀法違反で逮捕されるでしょう。統治者が武士でなくなったからです。
一方で時代が変わっても受け継がれるものもあります。日本では古来から、天皇家は多かれ少なかれ人々の尊敬の対象でした。聖徳太子の「和をもって尊しとなす」も、日本的なルールとして現代まで生きています。
ディスペンセーション神学を理解するとき、この考え方が前提となります。この世界と歴史の真の統治者が神であることは一貫していますが、人間の側の統治のあり方や統治ルールは異なる。そこに着目すると、聖書の中には、明確に色分けできる時代区分がある。
厳密には違うのですが、英Dispensationは「時代区分」「統治」の意味だと考えて頂ければ結構です。
ここまでが、化粧で言えば下地に当たります。ここからが、いよいよファンデーション(笑)。