松山ケイリン(その3)

ディスペンセーション神学の祝福①

 ディスペンセーション神学は信仰生活における「必修科目」ではありません。キリストの似姿に近づいていくこと--苦難を通して信仰と霊性と人格が練られることと言ってもいいですが--や、神を賛美すること、多くの人に福音を伝えることの方が、絶対に重要です。
 
 でも「選択科目」として履修しておくと、とても豊かな信仰生活が送れます。それは、聖書全体を体系的に無理なく理解する、特に終末論を理解するうえで、ディスペンセーション神学はとても優れた補助線だからです。
 
 今私たちは神の目から見てどんな時代に生きているのか。次にどんな展開や時代が待っているのか。それが分かったら、信仰が未来志向になります。この地上で苦しいことはいっぱいあります。それを信仰によって乗り越え、神の目に適う人生を送れば、神は千年王国において必ず豊かに報いてくださる。そう確信して生きることができます。黙示録20~22章を、字義通りに受け取らなかったら、どんな希望を未来に対して持つことができますか?

祝福その②

 次に、変な聖書解釈から解放されます。聖書は2000ページ近い書物です。ある部分だけ抜粋して変な解釈を施せば、牧師が信者の無知につけこんで心理的に支配することも可能ですし、信者の人生を浪費させることも可能です。
 
 私が実際に耳にしたあるメッセージでは、牧師が創世記12章3節を引用して、このように言いました。「聖書には『わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう』とある。だからクリスチャンを祝福する者は祝福されるのです!」。心の中でずっこけましたよ。この方、神学校の先生もやってるんですよ。帰り道「この教会には二度と行くまい」と誓いました(笑)。
 
 「あなた」はアブラハムとその子孫のことじゃないですか。新約時代の信者であるはずがない。飛躍した、都合の良い適用だと言わざるを得ません。皆さんにお尋ねしますが、皆さんはこの世の人々から何度も苦しい目に遭わされたことと思いますが、彼らに何か呪いは降りかかりましたか? もし万有引力の法則のようにクリスチャンにこの法則が働くなら、みんなこぞってクリスチャンになるし、誰もクリスチャンに悪いことしません。この法則が適用されるのは、民族としてのイスラエル総体だけです。
 
 トンデモ・メッセージを真に受けた信仰者生活は、スーパーで売っている卵を熱心に温めてヒナが孵ると信じるのと同じぐらい無益です。ディスペンセーション神学を履修していれば、そんな愚は避けられます。
 
 旧約聖書の小預言書はほとんど日本の教会で引用されませんが、例外がマラキ書3:10です。牧師さん、ここだけは大好き(笑)。ここを引用して「10分の1献金を怠ることは御心に反することです」と。
 
 でも、3章に出てくる「あなた」って誰ですか? ヤコブの子って書いてありますよね。イスラエルの民ですよ。旧約聖書の「あなた」はイスラエルの民の中の誰かか、民族全体以外にありません。だからここで「イスラエルはイスラエル」を適用すると、異邦人であるわれわれはこの命令の対象外であることが分かります。
 
 私が若かったころ、牧師がマラキ書を引用して「10分の1は給料の手取り額か、額面か。額面である」とメッセージしました。このメッセージだけは覚えているんです。未熟な信仰者だったけれども、違和感があったんでしょうね。今なら言えます。「どっちも間違いやで」。正しい基準はⅡコリント9:5~7にあります。「自分で決めて好きなだけ、いやいやでなく喜んで捧げなさい」が恵みの時代の基準です。

祝福その③

 そして、信仰が体験的・感覚的でなくなります。
 
 礼拝や賛美は自分が楽しく・熱狂的になるためにあるのではありません。いくつかのペンテコステ系の教会や、神戸で私が訪ねた、若者を集めることに成功している複数の教会は、ここを勘違いしていました。自分が楽しく・熱狂的になることを目的とするなら、教会でどれだけ時間を費やしても、聖書理解を深めたり人格や霊性の成熟に至ることはないでしょう。One of Entertainmentですから。飽きたらさようなら、ですよ。教理解釈が間違っているから、傷ついてキリスト教嫌いになる人も少なくないかもしれません。
 
 歴史を貫くテーマが「神の栄光」であることを理解していれば礼拝や賛美も、楽しさなんて二の次になります。というか、神の栄光をたたえることの中から本当の喜びは湧いてくるのです。
 
 
 
 長くなりました。これで本日のセミナーを終わりたいと思います。あとは皆さんからの質問にお答えしたいと思います。ご清聴ありがとうございました。