あなたが何を愛しているかは、あなたが何にカネと時間と心と手間を費やしているかで分かります。
どうです? 「愛」に関する実に明快な定義でしょう?
私はキリストと妻を愛しているので、両者に私のカネと時間と心と手間を可能な限り注いできました。
ところが最大の受益者である(はずの)妻は、「その定義は間違っている。カネなどとは聖書のどこにも書いていない」と真顔で伸べ、聖書を開いて「ここを声に出して読んで」と。有名な、新約聖書「コリント人への手紙第一」13章でした(一瞬で開くあたりはさすがです)。
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。愛は決して絶えることがありません。
いや、それはアーメンです。
でもさ、最大の愛って、十字架で神様が私たちの身代わりになって死んだことで、それは業界用語で「あがないの代価」って言われるじゃないですか。代価って、代金だからやっぱりカネですよね。あがないって買い戻しのことだから、やっぱりカネに絡みますよね?
パウロはんは「ローマ人への手紙」6章で「罪の報酬は死です」って、報酬(カネ)に絡めて説明してますよね?
心を伴わないのはNG
念のためですが、心を伴わないカネには、愛はありませんので。新約聖書「マタイの福音書」22章。
イエスは言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です」
余談ですが、この説教、第一と第二の戒めの間に、「第1.5の戒め」として自分自身を愛することが前提としてあるように読めます。
金額の大小も関係ない
さらに念のためですが、金額の大小が心に比例するとは限りません。マルコの福音書12章。
それから、イエスは献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。
そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚(※150円ぐらいだそうです)を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから」
あなたは何に、カネと時間と心と手間を費やしていますか?