こっちとあっち

 長年の友人で、「昭島めぐみ教会」(東京都昭島市)の石橋虎之助牧師からお招き頂いて、同教会でメッセージをしました。以下はそれを採録したものです。説教題は「こっちとあっち」、聖書箇所はヨハネの黙示録20章4~6節と11~15節です。聖書をお持ちでない方は、こちらを印刷してください。

2種類の分断

 
 先日「めぐり逢えたら」という90年代のアメリカ映画を見ました。
 
 妻を亡くした男役のトム・ハンクスに幼い息子が尋ねます。「死んだらどうなるの?」「天国ってあるの?」。トム・ハンクスは曖昧にしか答えられません。
 
 皆さんならどう答えるでしょうか? 宗教とその他の学問の違いは、「人間、死んだらどうなるの?」という問いに答えられるかどうかだと、私は考えています。
 
 まず「死」とは何か。答えは「分断」です。英語ではDivisionですね。「バイデン新大統領はトランプ前大統領が残した分断を修復できるか」といった文言を一度はお聞きになったと思いますが、あの「分断」は英語ではDivisionです。分断とは本来一つのものが二つに割かれることです。両手の手のひらを合わせてください。そして、右手だけを右に動かしてください。これがDivisionです。
 
 キリスト教の定義では、死=分断には2種類あります。一つは霊的死。「神と人の霊が分断されること」です。その意味で、すべての人は霊的に死んでいるところからスタートします。もう一つは物質的死。「肉体の耐用年数が来て、肉体から霊が分離すること」です。
 
 ヘブル人への手紙9章27節にはこうあります。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」。さばきと言うと言葉がきつく感じるので、「判定」と言い換えると良いと思います。霊は死後、神の判定会議に臨みます。
 
 今日は皆さんに、とても喜ばしい話と、残念な話をしたいと思います。
 
 それは「死後のコースは二つしかない」ということです。こっちとあっち、AコースとBコース。
 
 聖書はこう教えます。神と共に永遠の祝福を生きるか、神から断絶した永遠の苦しみに置かれるか。
 
 それを証明する方法はありません。私たちにできるのは、それを信じるかどうか、だけです。
 
 聖書を開きましょう。

それは喜びのコース


 ヨハネの黙示録20章4~6節。
 
 5節の「残りの死者は、千年が終わるまでは生き返らなかった」はカッコに入れてください。実際、口語訳ではカッコに入っています。ここは後半に回した方がすっきり理解できます。
 
 4~6節は「こっち」、Aコースの人の話です。
 
 まず4節「また私は多くの座を見た」。見たのは誰ですか? 使徒ヨハネですね。
 
 「それらの上に座っている者たちがいて、彼らにはさばきを行う権威が与えられた」。これは誰を指すのでしょうか? 聖書は縦に読む、つまり一部だけを切り取らずに文脈で理解すること、そして横に読む、つまり他の書でどう説明されているかによって理解することが大事です。聖書を聖書によって解釈するのです。
 
 「座」は椅子ですね。ヨハネの黙示録3章21節に「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせる」とあるので、座っている者=勝利を得る者=私と共にいる人=クリスチャン、であると分かります。
 
 第1コリント6章2節も開きましょう。「聖徒たちが世界をさばくようになることを、あなたがたは知らないのですか」ここからも、彼ら=さばきを行う権威が与えられた者=聖徒=クリスチャンであるということが分かります。
 
 「また私は」からは、場面が変わっていることが分かります。
 
 詳しくは午後お話しますが(※筆者注:この日午後に別の講座を持った。内容はこちらと一緒)、ディスペンセーション神学では、使徒の働き2章で聖霊が降臨して以降から現代に至るまでを「恵みの時代」と定義しています。私たちは、恵みの時代を生きている訳です。
 
 恵みの時代は永遠に続く訳ではありません。ある時、終わりが来ます。
 
 その序曲が「携挙」です。生きているクリスチャンはそのまま、恵みの時代に救われたクリスチャンは生き返って空中に引き上げられ(=携挙され)イエスと再会します。
 
 その後、地上では7年間の「大患難時代」が始まり、いわゆる「反キリスト」が世界を支配し、イエスを信じる者には大変な迫害が迫ります。
 
 「イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた人々のたましいを見た」は、信仰のゆえに、大患難時代に殉教した人を指します。どうして江戸時代の等の殉教者を含まないかと言うと、
 
 「彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった」とあるからです。「獣」は反キリストの事です。
 
 「彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた」。まず、ここで書かれている「千年」について説明します。
 
 イエスは2000年前、十字架で死なれ、復活し、天に引き上げられました。皆さんが、使徒の働き1章で学んだ通り、11節には「このイエスは、またおいでになります」と書かれています。もう一度来られることを、業界用語では再臨、英語ではSecond Comingと言います。
 
 イエスの再臨がいつかは誰にも分かりませんが、私たちは、そう遠くない未来だと信じています。イエスの再臨の理由は二つのmentのためです。GovernmentとJudgementです。
 
 4節と6節に「キリストとともに千年の間、王として治める」とあります。ということは、再臨後キリストを頂点とする王国・王権が千年間打ち立てられるということです。これがGovernment、統治です。その王国は、業界用語では千年王国、英語ではMessianic Kingdomと言います。主の祈りにある「御国を来たらせたまえ」の御国、福音書でイエスが語った「神の国と神の義をまず求めなさい」の神の国は、これを指します。
 
 旧約時代の聖徒、恵みの時代と大患難時代のクリスチャンは千年王国の国民となり、王権に参加します。「王として治めた」は、昔だったら朝廷や将軍から、摂津守とか安房守とかの役職と土地を頂くイメージ、今で言えば知事や市町村長、地方公務員になる感じだと思います。
 
 どれほどの権限や範囲を任せられるかは、地上生涯でどのような信仰生活を送ったか、神の目に価値ある人生を送ったかで判定されます。これがJudgementです。日本語では「報奨の判定会議」となるでしょうか。平たく言うとご褒美が示される場です。

それは残念なコース


 次に、黙示録11~15節を読みましょう。11節の「地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった」は最後に、12節の「書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった」は15節に回してください。その方がすっきり理解できます。
 
 これが「あっち」、Bコースの人です。
 
 まず、先程スキップした、5節「残りの死者は、千年が終わるまでは生き返らなかった」からお話します。千年王国の終わりのころに、第二の復活があります。これは残りの死者=非信者が対象の復活です。
 
 11~12節「また私は、大きな白い御座と、そこに着いておられる方を見た。また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た」は、非信者を対象としたさばきです。業界用語では「白い御座のさばき」です。このJudgementは、残念ですが、ご褒美ではなく「刑罰の判定会議」です。
 
 続けて12節「数々の書物が開かれた。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた」から、非信者は「数々の書物」に書かれた、各人の行いに応じて裁かれることが分かります。
 
 13節「海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた」。これは12節の繰り返し、リフレインですね。
 
 14節「それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である」。第二の復活に与かった者は、第二の死を迎えます。非信者の乗ったエスカレーターの行き着く先は、火の池とあります。楽しい世界とは、とても思えませんね。
 
 ここで先程スキップした12節「書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった」を挿入し、続けて15節「いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた」と読むとすっきり理解できます。
 
 「いのちの書に記されていない者」は、信者ではない人のことです。ここでも、非信者の乗ったエスカレーターの行き着く先は、火の池だと警告が繰り返されています。
 
 白い御座のさばきの後、先程スキップした11節の「地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった」状態になります。つまり、今私たちが生きているこの天地は消え去ります。その後どうなるかというと、新しい天と新しい地が起こされます。業界用語では新天新地です。詳しくは黙示録21~22章で説明されています。

天国ポイント


 では適用に入ります。
 
 まず非信者の皆さん。
 
 私は、そして憐れみ深い神は、一人でも多くの人が、Bコースの下りエスカレーターからAコースの上りエスカレーターに乗り換えられることを願ってやみません。そのための方法はたった一つです。イエスを、あなたの個人的なメシア、救い主として受け入れ、あなたの罪を赦して頂くことです。それにより、神と霊的に断絶・分離した状態から、再び神と一つになることができるのです。
 
 その決断ができるのは、生きている間だけです。「いつ決断すべきですか?」と林修先生に聞いてみてください。必ずこう答えますよ。「今でしょ!」。先延ばしして良いことは、一つもありません。
 
 仮に信じなくても、善行を積むことは推奨しておきます。白い御座のさばきで開かれるのは、「数々の書物」です。非信者は火の池において終身刑を受けますが、刑罰の軽い重いは、「自分の行いに応じてさばかれた」と二度繰り返されていることからも分かるように、地上生涯をどう生きたかが考慮されるからです。ただし、どれほど善行を積み重ねても、行いによって罪が許されることはありません。
 
 申し訳ないのですが、イエスに関する情報を全く受けなかった人に比べ、情報を受けた人はその分だけさばきも重くなります。これに関してはローマ人への手紙1~2章で学ばれることになるかと思います。このメッセージをお聞きになった方で非信者の方は、その点を十分お含みおきください。
 
 
 
 次に信者の皆さんに強調したいのは「聖書に親しみましょう」ということです。
 
 大学入試の前には、過去問を解きますよね。赤い表紙のあの冊子とか。
 
 報奨の判定会議で何が問われるかは、聖書にしか書いていません。神様からたくさんのご褒美を頂き、千年王国で高い地位を得たいなら、聖書に書いてある「神のルール」を学ぶほかありません。
 
 今日は開きませんが、ご関心のある方はメモしてください。マタイ25章14~30節、ルカ19章11~28節、ローマ2章6~7節、同14章10~12節、第1コリント3章11~15節、同4章2~5節、第2コリント5章10節。
 
 これらはごく一部ですが、報奨に関する記述はこのように、あちこちの書に散らばっています。なので砂の中から砂金を取り出すように、日々聖書を学ぶことが大事なのです。
 
 聖書から神のルールを学んだら、自然と行動が変わります。神と自分の一体化が進むからです。そうすれば、自然と神の目に価値ある行動しか取りたくなくなります。TポイントとかWAONポイントが気づかない間に結構貯まっているように、そうするうちに自然と天国ポイントが貯まっていきます。皆さんがBコースに行くことは決してありません。残された地上生涯で天国ポイントをコツコツ積み立てませんか? きっと大きくなって帰ってきますよ。
 
 
 
 最後にもう一度繰り返します。聖書は、死後のコースは二つしかないと教えます。こっちとあっち、千年王国と火の池です。それを信じるかどうかは皆さんに委ねられています。