追悼・小坂忠

 小坂忠さんが亡くなったという知らせを聞いたのは、2022年4月29日の夕刻でした。翌日の新聞各紙には、訃報が掲載されていました。「小坂ロス」が止まりませんでした。
 
 世間的には「細野晴臣や松本隆と結成した『エイプリル・フール』のボーカルで日本のロックの礎を築いた人」とか「日本のR&Bの元祖」として知られているのだと思います。「レジェンド」的な扱いでしょうか。
 
 われわれプロテスタント福音派からすると、「日本のコンテンポラリークリスチャンミュージック(CCM)の第一人者」です。埼玉県・秋津福音教会の牧師も務められましたが、主たる業績はやはり前者だと思います(余談ですが、義弟は同じフォースクエア教団に属しているため、私より情報のキャッチが早かったそうです)。
 
 礼拝で用いられる讃美歌は、「古典的な讃美歌(厳かな讃美歌)」が中心でしたが、日本の福音派教会(ペンテコステ、カリスマ含む)では1980年代後半あたりから、ギターあり、キーボードありの「今風の讃美歌」=CCMが歌われるようになりました。その分野を先頭に立って(正確には妻の高叡華<こう・えいか>さんと二人三脚で)開拓されたのが忠さんでした。すべての福音派がCCMを取り入れている訳ではありませんが、忠さんの名前や歌は多くの福音派クリスチャンに親しまれていました。
 
 残念ですが、各紙の訃報には、そのことについての言及がほとんどありませんでした。また、通常、著名人が亡くなった場合、その人の業績や人となりを紹介する「評伝」が掲載されるものですが、これは1面や社会面に大きく掲載される人の場合に限られます。なので不詳・わたくしめが、忠さんの評伝をしたためました。
 
 

日本の礼拝音楽の革新者

 私は忠さんに、3度お目にかかりました。1回目は2007年2月24~25日で、当時私が所属していた「新生の里キリスト教会」(長崎県大村市)にキリスト教の伝道ライブでお見えになりました。
 
 幼い娘が全身に大やけどをしたこと▽クリスチャンだった妻方の祖母に連れられ教会へ行ったこと▽教会の人たちが心を尽くして祈ってくれたこと▽包帯を取った時きれいな肌が見えたこと▽それがクリスチャンになったきっかけだったこと▽聖書を読んだらさっぱり分からなかったこと(何せ新約聖書の書き出しが「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」で、その後も系図の羅列で電話帳のようだったから、と)▽(前近代的で保守的な)日本の礼拝音楽に新風を吹き込み、多くの人にキリストの素晴らしさを知ってもらうために芸能界という輝かしい世界を退いたこと▽貧乏生活が続いて近所の農家からもらったニンジンを毎日山ほど食べたこと--などを、ユーモアを交えて話されました(15年も前に聞いた話なのにこれだけ覚えているのは、よほど印象的だったからでしょう)。写真はその時に家族で撮ったものです。
 
 礼拝では、忠さんが作曲した「感謝と喜びを」や「私は奇跡を信じる」などを、一緒に歌いました。幼かったうちの子たちが「わーたーしはー、しーんーじるー」と大きな声で歌うのに、うるっと来ていたようでした。
 
 2回目と3回目は、松山にいたころです。こちらは記録がなく、記憶もあいまいですが、2回目はやはり伝道ライブ、3回目は、当時通っていた松山福音センターの会堂で、隅の方に座っていました。具合が悪いのか、「お忍び」で来ていたのか、声をかけるのが憚られる感じがあったので、遠くから見ているだけにしました。
 
 繰り返しになりますが、忠さんの業績は、CCM市場のなかった日本にCCMを定着させたことです。ゴスペル専門レーベル「ミクタムレコード」を設立したのが1978年。「赤本」「青本」と言われるミクタムの楽譜集があるのですが、赤本の冒頭に高叡華さんが書かれているところによると、80年からプレイズ&ワーシップ(=CCM)の制作を始めました。いわゆる「プレイズ&ワーシップシリーズ」として知られるアルバムの第1作「I WORSHIP YOU」をリリースしたのが89年。そこから2009年の「New Heart」まで計20枚のアルバムを、ほぼ毎年世に送り出しました。
 
 特徴的なのは、ミクタムのCDには、むろん忠さんが作詞作曲したCCMも含まれていますが(数えてみたら、高叡華さん作詞のものを含めて56曲ありました)、日本の、他のクリスチャン(ミュージシャン)が作詞作曲したもの▽海外の有名なCCMを高叡華さんらが訳したもの▽古典讃美歌を今風に仕立て直したもの▽若手とコラボレーションしたもの――など、楽曲が非常に多彩なことです。「自前主義」に拘泥しない開放性、先進性が、多くの教会で愛された理由だと思います。著作権の取り扱いなど、「教会の外では当たり前とされること」への配慮が行き届いていたことにも言及しておきたいと思います。
 
 インターネットもYouTubeもない時代。日本の諸教会は、ミクタムのCDと楽譜を通して、あるいは忠さんたちの大規模な野外賛美集会を通して、あるいは忠さんらが運営するセミナーやスクールを通して、CCMを礼拝に取り入れていきました。古典讃美歌では関心を示さなかったであろう若者たちが、CCMを通してイエスを知り、信じていきました。礼拝が活気あるものになり、世代間継承が進みました。
 
 「New Heart」以降、新作のリリースが途絶えました。残念に思う一方、「若手が育ったので『後は任せた』という思いなんだろうな」と理解していました。
 
 最後に忠さんを見たのは、映画「アイ・キャン・オンリー・イマジン 明日へつなぐ歌」のプロモーション映像(2020年)の中でした。お痩せになったと思っていましたが、闘病中だったんですね。
 
 忠さんが亡くなった後、初めての日曜礼拝。私が通っている教会は、普段は古典讃美歌を歌うのですが、忠さんを追悼して初期の代表曲「小羊イエスよ」を歌いました。物足りなかったので(笑)、帰宅してから妻と(一部は息子も)忠さんの曲を何曲も歌いました。佳曲を多く残してくれましたが、個人的には「私は奇跡を信じる」とR&B調の「十字架の傍に立って」が一番好きです。歌っている間、何度もこみ上げるものがありました。
 
 76年に洗礼を受けてから半世紀近く走り続け、日本の礼拝音楽を革新し、私や妻、子どもたちをはじめ、多くのクリスチャン、ミュージシャンに影響を与えた忠さん。イエス・キリストに対するその忠実な歩みは、天において高く称賛されていることと思います。忠さん、長い間、本当にありがとうございました。