2023年、歌会始ならぬ読書始はJ.S.ミルの「自由論」にしました。難しいですね。要約もできません。政治思想系の本ってハンナ・アーレントも丸山真男もそうですが、なんでこんなに頭に入らないんでしょうか? こういう本を「楽しかった」とか言える人に、会ってみたいものです。
それでも頑張って読むのは「背伸びしないと成長もない」と思うからです。「あなたはそんなに一生懸命本を読んで何になりたいのか」と先日も妻に聞かれましたが、生きていく上で、体を成長させる上で良質な食事が必須なように、精神性の成長において良書が不可欠だから、呻吟しながら読むのです。はい、マゾです(笑)。
これは、私が時々参加している社会人ゼミで学んだことなんですが(「自由論」もそこで出た)、自由の対義語は「統制」です。
自由の主体は個人ですが、追求しすぎればアナーキズムに行き着いてしまう。
統制の主体は国家です。われわれの稼ぎの一部を税金として収奪するなど統制の最たるものですが、それが許されるのは社会的平等の実現という大義名分があるからです。でも統制を追求しすぎると全体主義になる。
二項対立という言葉があります。善と悪。新と旧。質と量。肉体と精神。米国と中国。いくらでも例が挙げられます。自由と統制もそうです。落としどころが大事になります。
対立を避ける知恵に、互いに牽制し合ったり支え合ったり並列する三者鼎立があります。じゃんけん。三権分立。過去・現在・未来。三国志の魏・呉・蜀。旧約時代の王・祭司・預言者。父・子・聖霊。ローマカトリック・東方正教会・プロテスタント。
フランス革命で唱えられた「自由・平等・友愛(博愛)」も三者鼎立の一つです。では、友愛の主体は何か? 答えは「中間共同体」です。
キリスト教会も中間共同体(コモン。ちなみにコモンがユニオンされる儀式だから聖餐式をコミュニオンと言うのです)の一つです。中間共同体ですから、参加も退去も自由意志に基づかなければなりません。牧師に多少の権威はありますが、国家のような権力は働かせることができません。
だから中間共同体の運営は難しいです。その結果「奉仕(※業界用語。教会の維持管理や運営に必要なこと全般を指すが、業務と言わないのはキリストへの愛に基づいているから)をする人が特定個人に偏っている」といったお悩みが出ることになります。
具体的な解決法は思い浮かびませんが、鍵はやはり「友愛」だと思います。メンバー一人一人が相互愛に基づく行動を自覚的・自発的に取る。牧師がその旨を事あるごとに共有する。キリストが人々への愛ゆえに=自発的に十字架にかかったがゆえに、キリストのからだを構成するメンバーもまた、自発的に、相互愛をもって行動するのが望ましいと思うのです。うん。それが生き生きとした教会共同体への道ではないかと。
おや、年始からえらく硬い話をしてしまいました(笑)。