世間様と世間教の続き。
佐藤直樹「『世間教』と日本人の深層意識」を読んだ後、気づいたことがありました。
日本の教会も、悪い意味で「世間の一つ」になってないか?
私が中学生のころ、神戸市では「丸刈り」が強制されており、私を含め公立中の男子生徒は全員坊主頭でした。
そうした「謎ルール」が横行存続するのが個々の世間における特徴なのですが、私が見聞きしてきた中には、教会にも無言の謎ルールがありました(当人たちはそれが「信仰深さの表れ」と考えている)。
・信者はスーツ着用で礼拝に出席しなければならない
・男女別々に座らなければならない
・エレキギターは「悪魔の楽器」だから礼拝で使ってはならない
・模範的な信者とは日曜礼拝だけでなく教会の諸行事に欠かさず参加している人である
・讃美歌の伴奏をしたり信者の前で特別賛美ができるのは、そうした信者に限定されなければならない
ここまで分かりやすくなくても、みんなが牧師の顔色を伺っていたり、特定の役員の声が大きかったり、礼拝後の雑談の方がみんな生き生きしていたり……チェックポイントはいろいろありますね。
そこに聖霊なる神の臨在はあるか
教会も人の集まりである以上、その運営にはある程度の規律や秩序が必要です。無法地帯がいいと言っている訳ではありません。
前回も書いた通り、キリスト教は「個」の宗教です。個の共同体である教会で、個々を一つにまとめるのは、何より聖霊なる神の臨在や、「成文法」である聖書(特に新約)の適切な解釈であるべきだと思います。後者についてはなかなか難しいのですが、聖書解釈(特に旧約)が行き過ぎると上記のような謎ルールが生まれ、悪しき世間と化す訳です。
「そう言えば最近あの人見ないな」と思ったら、「もしかして教会が無意識のうちに醸している『世間臭』を敏感に感じ取って去ったのだろうか」と考えた方がいいかもしれません。