人間性回復の場としての教会

 世間様と世間教の話パート3。
 
 佐藤直樹「『世間教』と日本人の深層意識」に、「世間に生きる人は個人ではなく役割を生きている」「日本人にとっての不幸せは孤独になることで、孤独とは世間の中のどこにも役割という居場所がなくなることを意味しています」(P22~23)とありました。
 
 分かるんです。これ。家で良き夫、良き父、良き自分の管理人でなければならず、会社で良き中間管理職でなければならず、教会でも信仰歴の長い成熟したクリスチャンでいなければならないと考えている私は、常にその場面に応じた役割を演じているところが多分にあります。役割行動人格としてのタロウ氏が前面に出て、本来の人格であるたろう君が後方に追いやられている訳です。ここここで詳しく書いた通りです。
 
 鹿児島で高級リゾートを経営している方が、テレビで「リゾートは人間性回復産業である」「社長や会長など肩書きのある人にこそ来てほしい」「ドレスコードは『裸』」と言っていたのが心に響いたのも、理由は同じだと思います。
 
 
 
 東田直樹「跳びはねる思考」に、興味深い記述がありました。
 
 自閉症の東田さんの考える「居場所」は「自分が自分らしく生きていられるところ」だそうです。どういう時に「自分らしく生きていると感じられるか」と問われて、東田さんは「ありのままの自分で、気持ちが穏やかな状態でいられることを望んでいる」と答えます(P42~43)。
 
 わざわざ高級リゾートに行かなくても、教会に行けば、ありのままで、穏やかにいられる。人間的には、教会はそのような場であってほしいと願います。教会こそ人間性回復の場である。肩書きを外していられる。裸の心をさらけ出してOK。前述の経営者ばりに、力強く言ってほしいものです。
 
 そのために、聖霊なる神の強い臨在があることと、聖書(特に新約)の適切な解釈が必須であることは、繰り返しても繰り返し過ぎることはないと思います。