10年以上前、鹿児島にいたころ、年長の友人がぼそっと言いました。
「あれは『世間様』に謝っているんですよ」
どこかの企業不祥事で社長が頭を下げた、という話の流れで出た言葉だと記憶しています。
この時以来、私の頭には、擬人化(擬神化?)された「世間様」が考察対象としてずっと漂ってきました。
世間様が結像した
最近読んだ、佐藤直樹「『世間教』と日本人の深層意識」に、実に興味深い指摘がありました。
佐藤さんは浄土真宗のお寺で、以下のように講演しました。
「日本はアニミズムに似た多神教。多神教は比較的寛容で、一神教のほうが不寛容だ」
よく耳にする日本の宗教論です。ここで出た、僧侶からの反論が面白い。
「日本は一神教で、つまりは世間教」
なるほど。世間様という神様をあがめるのが世間教で、世間教はユダヤ教、キリスト教と並ぶ一神教である、と。
だから明治以降、あれほど宣教師が入ってきて、国内で人材(=牧師や神父)を育成できるようにもなったのに、努力や熱意の量と信者の数が比例しないんですね。イスラム国家でキリスト教を布教するようなものだったのかもしれません。
世間教のドグマ
詳しくは同書を読んで頂ければと思いますが、世間教には四つの教義があるそうです。
①人から何かしてもらったら、必ず「お返し」をしなければならない(⇔キリスト教で「お返し」は来世で来る)
②相手の「身分」に合わせて対応する=話す相手によって一人称が変わる(⇔英語に一人称はIしかない)
③個人の概念がなく、「みんなと一緒がいい」
④呪術性。恵方巻にクリスマスに初詣に何でもOKなカオスが目に見えない形で人を縛る
絶滅危惧種かもしれないが
私の側に、「私がキリスト教徒になり得た理由」があるとすれば、あまり世間の空気を読まないからだと思います。良し悪しは別として、欧米的な「個」が若いころから強い。講演会や会議の場で「質問/意見のある人」と問われたら、躊躇なく発言します。
キリスト教は完全に「個」の宗教です。それぞれの個人が神と契約を結ぶ。神は契約の有無で救いと裁きを分ける。「世間」のような不定形なアメーバと神が契約を結ぶ、ということはあり得ません。
日本の「世間」が息苦しいと感じている、絶滅危惧種のような尖った方、キリストはあなたを待っています。