過日の礼拝メッセージはイザヤ書52章から語られました。ぬるっと引っかかったのが、8節の「見張り」でした。
あなたの見張りの声がする。彼らは声を張り上げ、ともに喜び歌っている。彼らは、【主】がシオンに戻られるのを目の当たりにするからだ。
日本ではそのような城塞都市(カーレ!)は発達しませんでしたが、古代イスラエルにおいて、都市は、外敵の侵入を防ぐために、城壁で囲まれていました。同様の都市は古代中国や中世欧州でも見られました。「国」という漢字が王様(=玉)の四方を囲んだ形であることからも想像できますし、オーストリアのウィーンに至ってはオスマン帝国の攻撃に備えて19世紀末まで高い壁に囲まれていました(今は撤去されて道路になっています)。余談ですが、トップ画像はAdobeの画像生成AIに「四方を壁で囲まれた城塞都市。中東風」と入力して作ってもらったものです。便利ですね。
閑話休題。
鍵が出入口と必ず対になるように、見張り、カッコ良く言うと哨兵は、城壁--安全な世界とそうでない世界の境--に設けられた櫓や門と対になり、目を凝らします。イザヤ書52章のように吉報(キリストの再臨)を待っている場合もありますが、大抵は「破れ口」がないかにいち早く気づくためです。
破れ口とは「それを放置すると災いが侵入してくるもの」です。城壁に穴が開いたら、そこからスパイや敵の大群が入ってきます。
旧約聖書のネヘミヤ記にはこうあります。「さて、サンバラテ、トビヤ、アラブ人ゲシェム、その他の私たちの敵に、私が城壁を築き直し、破れ口が残っていないことが伝えられたときのこと、ただし、まだ門には扉を取り付けていなかったときのことである」(6章1節)
この世界に鐘を打ち鳴らす
私は自らを「ジャーナリストの端くれ」だと考えているのですが、ではジャーナリストとは何かと言えば「国家の哨兵であり、国や社会に破れ口がないかアンテナを張っている人」だと考えています。
現代におけるクリスチャンも、ある意味で同じだと言えます。この物質世界、そして人々の心の世界や霊的世界にとっての哨兵。それにはある種の訓練や鋭敏さ、知性、霊的な洞察力が必要になってくるでしょう。
私たちは何のために日々聖書を読むのか。何のために聖霊なる神に自らを明け渡す領域を日々広げようとするのか。それは「異変を知らせる鐘」をいち早く打ち鳴らすため、とも言えます(本サイトもそのような場として用いられたいものです)。主よ、どうぞわれわれをお使いください。