全国で書店を展開する企業の社長に、持論をぶつけたことがあります。
「スマホは本の敵だ。スマホの画面を見ている限り、本が読めないのだから」
彼の意見は少し違うものでした。
「スマホVS本じゃない。情報処理VS思索なんだ。ネットの世界にも、思索の役に立つサイトはある。けど、特にSNSだけど、どこに行った、何を食べたといった話ばかり。そういう情報はいくら読んでも情報処理にしかならない。本は思索のための最高のメディアだね」
なるほど、と頷いたものです。
同じ文字の羅列でありながら、ある文章は情報処理で終わり、ある文章は思索の種になる。違いはどこから来るのか。私見では「読むのに、読んで理解するのに、時間がかかるかどうか」だと思います。
さっと読めるけどすぐに忘れてしまう揮発性の高い文章は情報処理で終わる。読んで理解するのに脳の稼働率を上げないといけない文章は思索の種、という訳です。
単純化すれば、ネットに上げられている文章は基本的に情報処理系が多く(むろん例外も多数あります)、本や新聞などの活字媒体は思索の種が多いと言えるかもしれません。
理由はもう一つあります。
ネットメディアは基本的に「親切」なんです。色が、写真が、動画があって、音声も出せる。知らない言葉もリンク先を訪ねればすぐに分かる。
活字って、基本的に白と黒だけだし、挿絵や図表が時々ある程度なので、とても「不親切」なんです。ゆえに、向き合うためには脳の稼働率を上げないといけない。
活字離れが不可逆的に進んでいるのも、そういう理由からです。
関西に単身赴任になってから「電車で通勤1時間半」という生活が始まりました。車内で観察していると、大半の方はスマホを触っています。動画を見る、音楽を聞く、ニュースやまとめサイト、漫画を読む、ゲームやネットショッピング、SNS、LINEなどのアプリを楽しむ人が多いように見受けられます。
一方で資格試験の勉強をしている方や、本や新聞を広げている方も少なくありません。先日など、私の向かいに座った男性がスタインベックの「怒りの葡萄」を読んでいました。やるなあ。
私は古い人間ですから、スマホを触らなくても一向に平気です。むしろ活字中毒ですから、本はないと困る。私は、このような人間を「ホモ・カツジス」と呼んでいます。
一方、スマホがないと生きていけない、起きている時間のかなりの部分をスマホに割いているような人を(私の娘などもそうですが)、「ホモ・スマホス」と呼んでいます。
単純化すれば、情報処理能力が発達したホモ・スマホスと、深い思索ができるホモ・カツジスになるでしょうか。両者がうまくかみ合えばいいのですが、私の懸念は、少数派のカツジスと多数派のスマホスの間で二極化・分断が進むことです。
例えばeスポーツなどは、プレーヤーの頭の中でものすごい量の情報が高速処理されていると思うのですが、どれだけ脳内情報処理量を増やしても、人格の成長や人間性の成熟にはあまりつながらないように思えるのです。どちらかと言うと、人間のデジタル化が進むというか、0か1かしか受け止められず、0と1の間の豊かなグラデーションを理解できる人が育たない気がするのです。
聖書の読み方も変わってくる気がします。聖書は全体で1900ページぐらいある厚い書物ですが、創世記から黙示録までを体系的に理解するって、相当に脳を鍛えないと(=高い思考力がないと)困難です。そういう意味では深い思索のできる人でないと牧師は務まらない。
二極化が進むと、考えられるシナリオは二つです。
①スマホスは聖書、あるいは教会を敬遠し、教会はカツジスだけの集まりになる
②信徒の多数を占めるスマホスに合わせて、牧師が耳障りのよいフレーズだけをピックアップして〝おみくじ〟的メッセージを語らざるを得なくなる
--どちらも良いとは私には思えません。けど、この流れは加速することはあっても鈍化することはないと思います。
ちなみに本サイトは、分かりやすさは重視していますが、そこそこ負荷がかかる程度に全体のレベルを設定しています。一つ一つの文章が短くないので、あまりスマホ向きではないですね。