クオ・ワディス

 ある書店が提供しているラジオ番組に、半ば押しかけのような形で出演させてもらったことがあります。ゲストが1冊の本を紹介する、10分弱の番組です。
 
 少なくない読書履歴の中から「この1冊」を選ぶって、難しいじゃないですか。最初に考えたのは、わが家の「殿堂」の最上段に位置する「グイン・サーガ」シリーズです。しかし、この書店は年に1回、番組で紹介された本を集めて販売するフェアを実施するので、文庫で100冊以上もある本を紹介する訳にもいきません。
 
 作者の栗本薫が「読みなおす一冊」(朝日新聞学芸部編)で、不動の3冊として挙げていたのが(この本の中では栗本名義ではなくもう一つの筆名の中島梓名義ですが)、「モンテ・クリスト伯」「クオ・ワディス」「エジプト人」だったので、殿堂にあったクオ・ワディスを紹介することにしました。モンテ・クリスト伯は紹介しなくたってみんな読んでいるでしょうし、エジプト人は映画でショートカットしちゃったもので。
 
 クオ・ワディスは鹿児島を離れる際、文学好きの友人が転勤祝いでプレゼントしてくれました。導入部がちょっとまだるっこしかったのですが、しばらく読み進むと一気に引き込まれ、心は紀元1世紀のローマを駆け巡ることになりました。
 
 普遍性と物語性(エンターテインメント性と言ってもいいのですが)が、これほどまでに高いレベルで両立した文学を、私は知りません。世界文学、キリスト教文学の金字塔と言っていいでしょう。クオ・ワディスを超える文学は、ミルトンの「失楽園」以外に思いつきません。
 
 ストーリーはシンプルです。A boy meets a girlです。ローマのイケメン軍人が、キリスト教を信じる美少女に出会い、恋に落ちます。最初は力づくでモノにしようとするのですが、彼女を通して徐々にキリスト教がイケメンの心の中に入っていきます。彼の回心の過程と2人の恋の進展が、一つの軸になっています。一方で、悪名高い皇帝ネロによる、キリスト教の迫害が迫り、2人は引き裂かれます。さてさて、2人の恋の行方やいかに?
 
 出版は1896年。日清戦争の2年後です。作者は1905年にノーベル文学賞を受賞しました。日露戦争の翌年ですね。それから随分な時が流れましたが、この作品の魅力はまったくもって現代性を失っていません。クリスチャンも、そうでない人も、必読の一冊です。
 

(シェンキェーヴィチ、岩波文庫)