人は死んだ後、どこにいくのか。どうなるのか。
この質問に答えられるかが、哲学と宗教の違いです。「死んだら無になるだけ」から「お釈迦様のいる西方浄土」まで諸説ありますが、聖書はどのように教えているか、ご説明したいと思います。今回はがっつり行きますよ。
神は「聖なる方」です。聖=義+愛です。
義なる方であるということは、「100%罪がない」とも言えます。一方、アダムの子孫である私たちは、生まれながらにして「すべて罪人」です。ですから、神の基準では私たちは誰も「OKと認められない」(業界用語では「義とされない」)のです。
罪には裁きが伴います。「罪から来る報酬は死です」と聖書は教えます(ローマ人への手紙6:23)。ここで言う死とは、物理的に寿命が尽きることではなく、神から霊魂が断絶され、永遠の苦しみに置かれることです。
同時に神は愛なる方です。愛には許しが伴います。その愛ゆえに、私たちが死に向かうことをよしとされず、救いの道を用意されました。義と愛。裁きと許し。矛盾する二つの要素を解決する連立方程式が、子なる神イエスを地上に遣わし、イエスをいけにえの小羊、つまり私たちの身代わりとして十字架で死なせることでした(ヨハネの福音書3:16、ローマ3:23~24、同4:25、同5:8、コリント人への手紙第二5:21、ペテロの手紙第一3:18)。
それは一方的な神の恵みであり、私たちが修行や努力によって勝ち得るものではないのです(エペソ人への手紙2:8~9)。この点が、キリスト教が他宗教と決定的に異なるところです。
「いのちの書」に名前はあるか
さて、私たちが地上に生を受けた時点で「いのちの書」に名前が記されます(出エジプト記32:32、詩篇139:16)。神の愛を受け取り罪許された者=イエスを信じた者は「いのちの書」に名が残り(ヨハネの黙示録3:5)、そうでない者は名前が消されます(詩篇69:28)。
「いのちの書」とは別に「小羊のいのちの書」もあります(黙示録13:8、17:8)。これは天地創造の始まりからある、信者のリストです。つまり「いのちの書」と内容的には同じです。
小羊のいのちの書に名前がある者=イエスによって神との関係を回復した者だけが、聖なる神の支配する新しい天と新しい地(簡単に言えば天国)に入ることを許されます(黙示録21:27)。
名前がない者は火の池=地獄に投げ込まれ、永遠の裁きを受けます(黙示録20:15)。地獄に関する記述は他にマタイの福音書13:42、マルコの福音書9:48、ルカの福音書8:31、黙示録9:1、同20:10にもあります。
天国とは神と共に暮らす平安の場所、地獄とは神から切り離された刑罰の場所と言っていいでしょう。そして、生きている間にイエスを受け入れたかどうかで、どちらのコースに進むかが決まります(マタイの福音書25:46)。
「今のままでは地獄行きだぞ! だからイエスを信じよ!」というアプローチはカルト的で、私は好きではありません。
イエスは言いました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネの福音書11:25)
神は、そして私は、一人でも多くの人が「こちら」に来られることを願ってやみません。あなたはイエスに対して、どのような態度を示しますか?