言葉と人格

 言葉は人格の所産である。
 
 森下辰衛監修「三浦綾子366のことば」からの孫引きで、出典は「私の赤い手帖から」だそうです。
 
 夫、父、中間管理職という立場上、自分が話すよりは聞くことの方がずっと多いです。人の話を聞くとき、「その人が繰り返すワード」に注意を払っています。
 
 尾籠な例えで申し訳ないのですが、便って、大も小も、健康診断の検体になりますよね。便とは字の如く、体の内側からの「便り」だからです。それを分析すれば、体を切ったり内視鏡を入れなくてもさまざまな情報が得られる訳です。
 
 同様に、その人が口にする言葉は、話し方を含めて、すべて「心の中」を反映したものです。
 
 その人の関心のないことは言葉になりません。私はカレーに何の関心も持っていないので、私の口からカレーという語が出ることはありません。逆に、その人が繰り返すワードは、その人の関心を(時には無意識のうちに)反映しています。
 
 その意味で、言葉とは心の中からの「便り」なのです。ただし、言語にできることは心のごく一部で、むしろ本人が言葉にできないことの中に多くの情報が含まれていることもあります。
 
 私は学生のころから「一言多い」と注意を受け続け、今も会議での発言を悔いることがしばしばです。いけずなのか、指摘せずにおられないのか……。人格の成熟は私にとってクリスチャン生活の柱となる目標ですが、まだまだ成熟が必要です。