1995年10月。秋の賀茂川の水は、十分に冷たいものでした。白いガウンを着た私は牧師と共に川の真ん中まで歩き、洗礼に臨みました。牧師が祈った後、私をザブンと川に漬け、祈りながら額に十字を書きました。本来は非常にめでたい式のはずですが、早朝ということもあり、立ち会いは牧師夫人のみ。着替えた後、帰りの車の中だったでしょうか、大きな耳垢がポロリと落ちて(尾籠な話ですいません)「ああ、俺の罪が落ちた」と思ったものです。
余談ですが「かもがわ」には2種類の表記があります。賀茂川と高野川が合流する出町柳以南を鴨川と記します。また賀茂川と鴨川を総称する場合も鴨川と書きます。私が洗礼を受けたのは賀茂川なので、ネイティブ京都人は「ああ、上流側ね」と理解します。
閑話休題。
一般に「クリスチャンになること」=「(水の)洗礼を受けること」と思われています。大きな間違いではないと思います。洗礼は「聖礼典」の一つです。正教会、カトリック、英国国教会(聖公会)では七つの聖礼典(先方は「秘跡」と言います)があるのに対し、「聖書のみ」を強調するプロテスタントでは、聖礼典は洗礼と聖餐式の二つです。洗礼は人生に(基本的には)1回限り、聖餐式は月に1回です。
洗礼はギリシャ語で「バプテスマ」と言います。洗礼は、自分がイエスをメシアとして信じたことを(業界用語で表現すれば「信仰を持ったことを」)公に宣言するものです。「洗礼を受けなければ天国に入れない」ものではありませんが、イエスを信じたなら、余程の理由がない限り、なるべく速やかに受けるのが望ましいと私は考えています。
私のように全身を水に浸けるのを「浸礼」と言いますが、教団・教派によっては「滴礼」といって頭の上にポタポタ水を垂らす方法を採用しているところもあります。どちらが正統かという論争は大昔からあり、その解釈を巡って教団・教派が形成されていった面があります。幼児洗礼が有効かどうかについても同様です。
個人的には、赤ちゃんに有無を言わさず洗礼を授けてしまうのはどうかと思うので(医療が発達していなかった時代は乳幼児のうちに死んでしまうリスクが少なからずあったので、幼児洗礼が推奨されたという面はあったにせよ)、わが家の3人の子どもたちには、本人が「洗礼を受けたい」と言うまでは無理強いしませんでした。
3人とも、それぞれ小学生のうちに信仰決心した(これも業界用語ですね。イエスを受け入れて洗礼に臨むことを決めた、という意味です)のは幸いでした。長女は部活が忙しくなった中2ごろから教会から足が遠のき始め、今は完全に〝放蕩息子〟(放蕩娘か)状態。長男と次男はまだ喜んで教会に通ってくれています。洗礼を受けるだけでなく、それぞれが一人の信仰者として、神との1対1の関係の中で人生を歩んでくれることが、父の願いと祈りです。