ユダヤ教、キリスト教には、日本人が考える意味での「幸福」という概念がないのではないか? 最近、そう考えるようになりました。
大辞泉第3版によれば、幸福とは「不自由や不満もなく心が満ち足りていること・さま」です。日本人にとって幸福とは「私が」不自由と感じたり、「私が」不満を感じたりする状態があるかないか、ということになります。
聖書新改訳2017で「幸福」という語は3件しかヒットしません。いずれも旧約聖書です。「幸い」だと123件で新約にも多く登場します。
「幸い」と訳されているギリシャ語は、英語で言うBlessedとその派生形です。受動態です。精査した訳ではありませんが、聖書中、「幸い」のほとんどは神との上下関係で語られています。神との関係抜きに幸いであることなど、旧約時代やイエスの時代の人々にはあり得ないことだったのでしょう。
マタイの福音書22章で、「律法の中でどの戒めが一番重要か」と尋ねられたイエスはこう言います。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」
神との豊かな「縦」の関係が何より重要、と言っているわけです。
そのうえで「同じように、あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と言います。ここで人と人との関係、水平の関係が出てきます。
さよなら、空虚な人生
横の関係は自分自身から家族親族、友人、ご近所さんや学校、職場の人、同じ自治体、国、エリア、世界……と同心円状に広がっていきます。
日本人の大多数はキリスト教を信仰していません。つまり神との関係が元々ない。そのうえ、特に若い人は、かなりの時間をスマホに割いている=リアルな横の関係も失われていっているように見受けられます。
ネットを通して世界中の人とつながれるようになったことは素晴らしいことだと思うのですが、中心部がスカスカになっても大丈夫だろうか、と心配するのは、私が古い人間だからでしょうか。
もしあなたが、自分の人生は空虚だ、豊かなつながりの中で「幸い」を得たい、リア充になりたいと思うなら、どうぞ近くの教会を訪ねてみてください。一歩踏み出せば、きっといいことがありますよ。