過日の礼拝メッセージは、ヨハネの福音書「カナの奇跡」から語られました。
カナは、イスラエルの田舎町です。そこでの婚礼にイエスが招かれました。困ったことに婚宴の最中、ブドウ酒が尽きてしまいます。イエスは給仕に「水がめに水を汲んでいっぱいにするように」指示します。イエスの奇跡によって水が極上のブドウ酒に変えられます。
この話を聞いているうち、私の脳内には「今風に言えば、風呂の残り湯を洗面器で汲んで洗濯機に入れるようなものだろうか」との思いが去来しました。そして「いや、違うな……でも、こんな場面は聖書にいくつかあったぞ」と。
すぐに思いついたのは創世記24章「イサクの嫁探し」です。イスラエル民族の祖アブラハムはある時、一人息子イサクの妻を探してくるようしもべに命じます。しもべはアブラハムの故郷まで長い旅をします。
でも、誰が妻になるべき人かなんて分からないですよね。しもべはこのように祈りました。
「泉に水を汲みに来た女性に私が『どうか、あなたの水がめから飲ませてください』と言って、彼女が『どうぞ。あなたのラクダにも水を飲ませましょう』と言ったら、その娘こそ妻に迎えるべき女性です」
実際、リベカという女性が、しもべだけでなく、ラクダのためにまで水ぶねに水を何度も注いでくれたので、彼女は妻に迎えられました。
もう一つは出エジプト記2章です。女性たちが羊に水ぶねから水を飲ませていたら、別の羊飼いが邪魔をしたので、その場に居合わせたモーセが彼らを追い払い、再び羊に水を飲ませることができた、という話です。女性の一人は後にモーセの妻になります。
三つの話に共通しているのは①水を容器(水がめ、水ぶね)に満たす②結婚に関係している--ことです。
聖書において、水は「神ご自身」のメタファーです。子なる神イエスを指す時もあれば聖霊なる神を示す時もあります。一方、器は私たち自身です。器を水で満たすとは、私たちに神の霊が注がれ、「私」という器が神の霊でいっぱいになる、つまり私と神が夫婦のように一体となることを意味します。
では、私たちが「器の20%は砂利を入れておくので水は80%しか入りません」と言ったらどうなるでしょう? 不純物によって、神との完全な一体化は妨げられます。夫婦関係で例えれば、妻以外に親しい女性がいるようなものでしょうか。
霊的な人になる、霊的に成長・成熟するとは、自分という器から、神との一体化を妨げるものを少しずつ排除していくことです。不純物の最たるものは自我でしょう。自分が正しいという思い込み、自分流でやりたい。「自分が、自分が」を貫くことで、神の霊で満たされることを妨げるのです。
ある人にとってはご贔屓の球団かもしれません。アイドルグループかもしれません。ランで3時間を切ることかもしれません。いずれにせよ、神より優先しているものがあれば、それは器の底に溜まっていきます。
神を信じた当初は器にセキュラーな要素がいっぱい詰まっているので、ノンクリスチャンとほとんど変わりません。メッセージを聞き、祈り、聖書を学び、信仰の友と交わり、試練に立ち向かう中で徐々に入れ替えが進みます。それは「自然とそうなる」というよりは、意図的にその方向を目指すものです。
あなたの器には何が溜まっていますか? あなたの器に神の霊はどのぐらいそそがれていますか?
私も自分という器に不純物がないか、常に気を付けたいと思います。
何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。(旧約聖書「箴言」4章23節)