エリートキュウリ

 食事を作る際は、スーパーで買い物をするところから始めます(あり合わせの物で作れるほどの技量がないのです)。
 
 夏場はキュウリが安くてありがたいです。私たちが意識することはほぼありませんが、世間に流通しているキュウリは(他の野菜も肉も)、優れた品種を選別し、かけ合わせた苗から育てられたものです。つまりエリートキュウリです。
 
 私が箱の中から手に取るのは、その中でも形や色の良い物です。つまりエリート中のエリートキュウリです。

発想の起点は「自分」ではなく

 2025年3月に放送されたNHK ETV特集「日本人と東大」の第1回は「エリートの条件」でした。番組は「日本の未来を担うエリートになるという意識を持っていますか?」という東大新聞社の新入生アンケートから始まります。そして、東大はノーベル賞受賞者や最高裁長官、日本銀行総裁らを輩出してきた……と続きます。
 
 高学歴だったり、給与の高い企業に勤務していたり、影響力の強い地位にあったりすることから、自分をエリートだと考える人がいることは、否定しません。でもこれって、発想の起点が「自分」なんですよね。
 
 新種のキュウリの苗を作った人と苗の関係には、絶対的な上下関係があります。キュウリを購入した人とキュウリの間も、同様です。選ぶ側には、他のものを選ばなかったなにがしかの理由があります。違う表現で言えば、選びとは上位者からの一方的なものであって、選ばれた側が云々するものではありません。

世間とは異なる価値観

 聖書は「選び」に関する記述が盛りだくさんです。アブラハムも、モーセも、ダビデも、ヨセフもマリアも、ペテロもパウロも、みんな神に選ばれた器です。この中で、選ばれた理由がある程度明示されているのは、モーセとパウロぐらいでしょうか。選びの日のために、モーセやパウロには「生まれ」であるとか、ある種の「お育ち」が与えられました。
 
 イエスはこのように言います。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです」(ヨハネの福音書15章16節)
 
 私、山崎太郎という一個人が、あまたの宗教の中からキリスト教を選んだのではない、神が、どういう訳か山崎太郎を選んだ。その理由は山崎太郎個人の内側にあるのではなく、選びに対する責任を果たそうとした結果あるいは過程で外部にもたらされるもの(=「実」)にこそある、と聖書は言います。
 
 ここには「選ばれた者=エリート」とは異なる理路が見えます。
 
 パウロはこのように言います。「しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました」(コリント人への手紙第1、1章27節)
 
 神が山崎太郎を選ばれたのは、山崎太郎が「ちっぽけな者」だからこそだ、と聖書は言います。
 
 ここには「選ばれた者=優れた者」とは逆の理路が見えます。

ささやかな声

 もしあなたが、自分をつまらない者だ、価値のない者だと考えているとしたら、このように考えてはもらえませんか。「それゆえに自分は神から招かれていたのかもしれない」。
 
 何もかもが嫌になって、生きている意味などないと考えているとしたら、このように考えてはもらえませんか。「神の召命に応えるとき、世界に自分の存在意義が生成し始めるのだ」と。
 
 神はあなたを招いておられます。あなたには、そのささやかな声が聞こえているはずです。