ダビデバビデブー

 クリスマスと長女の誕生日が過ぎれば、すぐに新年です。キリスト教界に初詣はありませんが、多くの教会では元日礼拝が捧げられます。そういう訳で、私たち家族も新年早々の礼拝を捧げました。以下はそこでのショートメッセージを再録したものです。
 
 聖書を開きましょう。第2サムエル記11章1~5節です。

 年が改まり、王たちが出陣する時期になった。ダビデは、ヨアブと自分の家来たちとイスラエル全軍を送った。彼らはアンモン人を打ち負かし、ラバを包囲した。しかし、ダビデはエルサレムにとどまっていた。
 
 ある夕暮れ時、ダビデが床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、一人の女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。
 
 ダビデは人を送ってその女について調べさせたところ、「あれはヒッタイト人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバです」との報告を受けた。
 
 ダビデは使いの者を送って、その女を召し入れた。彼女が彼のところに来たので、彼は彼女と寝た──彼女は月のものの汚れから身を聖別していた──それから彼女は自分の家に帰った。
 
 女は身ごもった。それで彼女はダビデに人を送って告げた。「私は子を宿しました。」

 聖書に「年が改まり」という記載があるのはすべて旧約聖書で、7カ所に出てきます。日本では新年は1月ですが、これはキリスト教暦=西暦=太陽暦に基づいたものです。ダビデの時代のイスラエルはモーセの律法で動いており、律法で第一の月とされているのは、過ぎ越しの祭を祝う「ニサンの月」ですから(レビ記23章5節)、西暦では3~4月になります。聖書を読む時に大事なのは、現代日本人の感覚で読むのではなく、日本とイスラエルの時間的、空間的、文化的隔たりを意識して読むことです。
 
 数々の戦場を駆け巡ってイスラエルの王になったダビデ、イスラエルでは徳川家康級の人物ですが、偉くなってしまうと落とし穴が待ってるんですね。自らが先頭に立たずとも、部下に「あんたら行ってこいや」と命じれば済む。
 
 本人は何をしていたかと言うと、夕暮れまで寝ていた。前日、深夜までどんちゃん騒ぎをしていたのでしょうか、生活が乱れていたことが伺えます。
 
 ぶらぶら散歩していたら、美女の裸が目に入った。そこで引き返せばいいのに、自分の部屋に召し入れた。ルターに「鳥が頭上を通るのは避けられないが、頭上に巣を作るのは避けられる」という名言がありますが、見えちゃったものは仕方ないにせよ、ダビデは自ら罪を拡大しています。ダビデと神の「チューニング」がずれて、罪のノイズが増えていることが伺えます。
 
 相手は夫のある女性だというのに関係を持って、挙句に妊娠までさせた。ここには出てきませんが、それを揉み消すために夫が戦場で死ぬよう仕向けました。ダビデにとっては黒歴史です(聖書が信用できると思うのは、黒歴史も率直に記録している点です)。
 
 一年の始まりに、私たちはここから何を学ぶべきでしょうか? ダビデのやったことの逆を行くのが、クリスチャンのあるべき道です。
 
 地位にかかわらず、自ら率先する姿勢を失わない。
 
 規則正しい生活を送る。
 
 罪が自分の領域に入ったら全力で逃げる。
 
 神と自分のチューニングを絶えず感度良好な状態にする。
 
 他人の夫や妻に手を出さない。
 
 失敗を隠蔽しない。罪の上塗りをしない。
 
 これらを心掛けて、良い1年にしましょうね。アーメン?
 
 
 
 家族礼拝が終わった後、少し反省しました。「ティーンエージャーたちには刺激が強すぎたかな?」