むかーしむかし、ある所に、大金持ちがいました。
ある日、大金持ちは旅に出ることにしました。旅立つ前に3人のしもべを呼んで、それぞれに5万両、2万両、1万両を与えて、どのように使うかを任せました。
5万両もらった者はそれを元手に商売をして、さらに5万両もうけたとさ。
2万両もらった者も、2万両もうけたとさ。
しかし、1万両もらった者は、主人が厳しい人だと知っていたので、穴を掘って1万両を隠したとさ。
さて、主人が帰ってきて、清算が始まった。
5万両と2万両のしもべは誉められたが、1万両のしもべは叱られて、真っ暗闇の中に放り出された。
主人の期待にかなわなかったしもべは、こうなるんじゃの。
おしまい。
本サイトでも何回か引用していますが、新約聖書「マタイの福音書」に「タラントのたとえ」というエピソードがあります。タラントは古代の貨幣単位で、日本円に換算すると1タラント=3000万~6000万円。タレント=才能の語源になった言葉です。聖書では1、2、5タラント与えられるしもべが登場します。
上記の昔話は、それを日本昔ばなし風に置き換えてみたものです。
私が悪い牧師なら、このようにメッセージします。
「大金持ちはイエスを、3人のしもべは信者を指している。信者には量の差こそあれ、それぞれに才能が与えられている。イエスはそれをどのように用いるか天から見守っており、神の期待に反する成果しか上げられなかったら、信徒と言えど外の暗闇、すなわち地獄に落とされる。それが嫌なら献金に励もう、奉仕に励もう、聖書研究に励もう、礼拝欠席などもっての外で、教会が主催する諸行事にも積極的に参加しなければならない!」
いささか戯画的に表現してみましたが、もしこんな牧師がいたら、その教会の信徒はいつまでも心に平安を得られることがないでしょうね。イエスを信じた後でも、自分の行い次第で天国行きの切符を失う可能性があるんですから。
聖書は約1900ページある書物です。さまざまなことが書かれています。その中のごく一部をピックアップして恣意的な解釈を施せば、どんなメッセージでも組み立てられます。聖書は残念なことに一人で読んで理解できる書物ではなく、専門家=牧師の解説が必要ですから、牧師にもっともらしく語られたら、知識の劣る側が反論するのはなかなか難しい。
大切なのは「聖書をどう解釈するか」です。解釈を間違えないためには、いくつかの方法があります。
①聖書を縦横に読む
縦に読むというのは、一部をおみくじ的にピックアップして読むのではなく、文脈を重視して読むということです。タラントのたとえはマタイの福音書25:14~30に記されているのですが、その前後の24:1~25:46を読めば、このたとえは、イエスがご自身が再臨する際の条件とその時の報償/裁きについて弟子たちに予告しているのだと分かります。
横に読むというのは、聖書の他の福音書や書簡、あるいは旧約聖書と比較しながら、あるいは聖書全体のメッセージに照らして読むということです。
ルカの福音書には、同じような「ミナのたとえ」という話があります。タラントのたとえとミナのたとえを比較すると、重なる点は多いのですが、一致しない点もあります。ここから、3人のしもべのうち、最も少ない金額を預かったのが非信者、あとの2人が信者であると読み解くことができますし、信者が地獄行きになることはないことも類推できます。
②聖書を複数人で学ぶ
聖書それ自体が、共同体で読むことを促していると言えましょう。1人では正しく解釈することは困難ですが、集合知やディスカッションにより正しい解釈に落ち着くことが期待できるからです。
③牧師に学ぶ
これが王道です。専門知を持った人=牧師にきちんと学ぶのが一番。ただ、出身の神学校によって解釈法が異なるのはともかくとして、神学校や神学部を出ているのにヘンテコ解釈を施す牧師が珍しくないのが現状です(何人も見てきた)。残念な事に、教会に通っているから、牧師に学んでいるから安心、という訳ではありません。
④信徒を見る
信徒を見れば、牧師が分かります。もし牧師が忠実に聖書を解釈し、それを日曜礼拝で信徒に日々伝えているなら、信徒も生き生きと聖書を語るでしょう。礼拝に命があるでしょう。信徒の顔に平安がないなら、ヘンテコ解釈で心を縛られている可能性があります。
⑤自分の感覚を大事にする
ヘンテコ解釈に遭遇した時に「本当かなあ」と思えたり、何となく違和感を感じられることは、とても大切です。
「正しく解釈された」聖書は、人々を自由にします。人々に生きる力を与えます。人々を成長させます。私も本稿を書けるようになるまで、20年以上を必要としましたし、思えばヘンテコ解釈ゆえに不要な苦しみを味わったこともありました。皆さんが、よき聖書の解釈者と出会えることを祈ります。