イエスを信じない人間はすべて罪人か?--Yesです。
イエスを信じた人間は罪人でなくなるのか?--Noです。
イエスを信じた後も、その「支配度」は信仰の成熟度に反比例して減りますが、罪は人の中に残ります。ただイエスの犠牲により、それに伴う罰を受けずに済むのです。
私たち自身は色で表せば黒だけど、その上から真っ白な衣を着せてもらった、というイメージです。
だからクリスチャンの事を「私たちは所詮『救われた罪人』に過ぎない」という人もいます。
これは一見謙虚で、日本的な物言いに聞こえますが、私はあまり好きではありません。イエスが与えてくれた恵みをあまりに小さく捉えているように思えるからです(このような言い方の本質はニヒリズムだと思います)。
私がお世話になった宣教師は、かつてこう教えてくれました。
「聖書には『イエス・キリストの聖徒』と書いています」
こちらの方が、よほど肯定的だと思います。
先日、礼拝メッセージで、新たな視点を与えられました。
イザヤ書44章2節で、イスラエルの民に対して「エシュルン」という語が使われているのを初めて知ったのです。
手持ちの聖書辞典によれば、「正しい」を意味する「ヤーシャール」というヘブライ語から派生したそうです。「イスラエルに対する理想的性格を示す詩的名称」と。
別の聖書辞典(辞書が好きなんです)は「この呼称は、イスラエルの民が正しいからではなく、彼らを贖い、召された神が正義であり、彼らを正しい道へ導かれるからである。またこの呼称により、罪を犯し、堕落しやすい民に神の民としての自覚を与えようとしているのである」と説明しています。
これはクリスチャンにも当てはまります。
私たちは、自分が正しいから救われたのではない。救われた後も、罪を犯し、堕落しやすい性質は残っている。それでも神は「エシュルンよ」と私たちに語りかけます。神によって正しい道に導かれよ、と。
クリスチャンの皆さん。あなたは自分を「所詮は『救われた罪人』に過ぎない」(フッ……)と言いますか。「聖徒」や「エシュルン」と言いますか。あなたのセルフイメージは、あなたの意識や行動を規定します。きっと。