何かの機会に「私はクリスチャンです」と説明すると、3回に1回はこのように返ってきます。「神さまがいるなら、どうして●●がこの世に存在するのか」と。
●●は戦争でも、貧困でも、巨大災害でも、治らない病気でも、何か不条理な事でも構いません。とにかく、個人の努力では解決できないようなネガティブなものです。
この質問に対して、私は四つの答を示します。
1点目はこうです。
「神さまの大きさと私たちの知性は、琵琶湖とフラフープぐらい違う。フラフープから覗いて見ると、琵琶湖が淡水であることや広大であること、魚や貝がいることは分かる。でも、琵琶湖の大きさ、水が何トンあるか、魚が何匹いるかはフラフープから見る限り分からない」と。
同様に、神の本質について私たちの知性である程度理解できても、神が個々具体的にどのようにお考えであるかは、計り知れないのです。
だから、どうして戦争、貧困、災害、病気、不条理があるのかについても、究極のところ人間の知性では知ることができないと思うのです。
2点目は、三浦綾子の「細川ガラシャ夫人」に確かこんなセリフがあるんですが、それが正鵠を射ていると思います。「善因善果なら、神はいらぬ」
私たちは神さまがいる、いないにかかわらず、どこかで因果応報を信じているところがあると思います。悪いことをしたらバチが当たる。良い行いには報いがある。でも、本当に因果応報が万有引力の法則のように世界を支配しているなら、神さまはいらないし、みんな悪事は働かず良い行いしかしないですよね。必ずリターンが伴うんですから。
3点目は、冒頭のような質問をする人は、ネガティブなことだけ「神さまのせい」にしていることに気づいていない、ということです。
世界は確かに不条理なことに満ちています。でも、見方を変えれば、私たちの身の周りでは70年以上戦争のない状態が続き、貧困もある程度解消され、社会のシステムもかなりのレベルで安定し、多くの人は日々健康に暮らせており、楽しみも、心温まる話も数多くあります。
冒頭の質問を裏返すと「神さまがいないなら、どうして毎日こんなに平和や安定や秩序が保たれているのか」となる訳ですが、そのような問いを立てる人にはお目にかかったことがありません。私たちはどこかで、心に受け入れにくいことは神さまに原因を求め、受け入れやすいことは自分たちの努力の結果、と考えてしまいがちなのです。
4点目は「神の憐れみ=忍耐=愛」です。
神さまは、悪が栄えるこの世を、決して良しとされている訳ではありません。悪が行われる度に、心を痛めないはずがありません。聖なる、義なる神は本当なら、かつて洪水でノアの家族以外を一掃したように、地上の悪を一掃されたいと思います。神には、それはいつでもできる。でも、憐れみ=忍耐=愛によってそれをされないだけです。何のために? 一人でも多くの人がイエスを救い主として受け入れるために、です。一人でも滅ぶことを望まない愛ゆえに、私たちにギリギリまで猶予を与えてくださっているのです。
洪水を免れたのは、箱舟の中にいた人と動物たちだけでした。現代の箱舟は、教会です(建物としての教会、皆さんのご近所にある教会という意味でなく、クリスチャン一人ひとりによって構成される普遍的な意味での教会です)。
皆さんも、神の裁きが再び地上を襲う前に〝箱舟〟に入りませんか。