今日の礼拝メッセージはマルコの福音書10章13~16章でした。大変有名な場面です。
人々が子どもをイエスの元に連れて行こうとしたら、弟子たちが(おそらくは師への配慮から)人々を叱った。そんな弟子たちを「邪魔してはいかん」とイエスが叱ります。聖書では「憤った」という強い表現が使われています。
そしてイエスは有名なあの台詞を言います。
「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません」
私はこの場面を読みながら、ヨハネの福音書2章を思い出していました。
「イエスの宮きよめ」です。
当時エルサレム神殿では、巡礼者が捧げる生贄に必要な牛、羊、鳩を市価より高値で売る者たちや両替商がいて、私腹を肥やしていました。支配層がファミリービジネスを展開し「うまみ」を吸い上げていた訳です。
激怒したイエスは彼らを追い散らし、有名な「わたしの父の家を商売の家にしてはならない」と、歌舞伎なら決め台詞になるような一言でとどめを刺します。
二つの場面には共通点があります。イエスご自身という「神殿」に来ようとした子どもたちを妨害した弟子たち。イエスの父なる神の家という「神殿」に来た巡礼者たちを阻害する商人たち。彼らが共にイエスの怒りを買ったのは「神と礼拝者の間には、何者も立ちはだかってはならない」からです。
現実には、神と非クリスチャンの間には夾雑物がいっぱいです。それでも、子どものように神の国(イエスご自身)を受け入れるなら、イエスがかつて「子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された」(マルコ10章16節)ように、私たちを祝福してくださいます。
クリスチャンになっても、ただちに邪魔物がなくなる訳ではありません。信仰の成熟度に比例します。不純物を含まない金属の方が熱伝導率が良いように、神との間に余計なものがなくなるほど、神の御声が聞こえるようになります。私が常々、人生をシンプルに保ちたいと考えているのも、そのような理由からです。