考「いのち」

 最近「いのち」についてよく考えます。「命」とは少し違う。キリスト教信者であるかどうかを問わず、多くの方が、世界には目に見える(物理的な、数値化可能な)世界だけでなく、目に見えない、霊的な世界があると感じていると思います。「いのち」は、霊的な生命を指します。
 
 きっかけはハワイの教会のウェイン・コデイロ牧師のメッセージを改めて聞いたことでした。ある時、コデイロ師は砂漠の真ん中にあるホテルを訪ねます。砂漠ではたちどころに枯れてしまう植物が、空調の効いたホテルでは生き生きとしている。それを見てコデイロ師は「教会もこのような場所でなければならない」=教会には「いのち」が豊かに流れていなければいけない、と思ったそうです。砂漠とはもちろんこの世、教会以外の場所です。
 
 教会がそのような場所であることに異論はないのですが、思ったのは「週1回、午前中の数時間だけが『いのち』を受け取る時間でいいのか?」ということです。これに答えるには、そもそも「いのち」とは何かをはっきりさせなければなりません。

思いつくままに列挙してみる

 「いのち」は父なる神ご自身です。すべてのいのち・命は父なる神から始まりました。
 
 「いのち」は子なる神ご自身です。イエスは信者に永遠のいのちをお与えくださった。
 
 「いのち」は聖霊なる神ご自身です。「御霊の思いはいのちと平安です」(ローマ8章6節)。

神と人との関係において

 聖書は「いのち」です。神は元来「ことば」(言葉ではない)なる方で、書き留められ、神から万人に与えられた「ことば」が聖書だからです(ヨハネの福音書5章24節)。
 
 祈りは「いのち」です。祈りは神との対話で、神との関係性を豊かにするから(逆に死とは神との関係が完全に絶たれること)。
 
 賛美歌を歌うことは「いのち」なのでしょうか? これについては結論は出ていません。賛美は神の栄光を称えるものであり、人から神への「一方通行」という点で祈りとは違う気がします。ただ、神との関わりを深めるという点では「いのち」につながるかもしれません。

生命の根本として

 血は「いのち」と深い関わりがあります。だから旧約時代は動物の血が一時的な罪の代価となりました(レビ記17章11節)。イエスの血は新約時代の信者に新しいいのちを与えました。
 
 呼吸は「いのち」と深い関わりがあります。神はアダムを創造した時、鼻にいのちの息(神の霊)を吹き込まれました。血も呼吸も、止まると死んでしまう。

「いのち」を回復するために

 このように考えると、砂漠に生きるわれわれ信者が霊的な「いのち」を回復するには、聖書を読み、祈り、内住の聖霊なる神に自分を明け渡していくことを、「週1回、午前中の数時間以外」と寝ている間以外、可能な限り続けるのが唯一の道、ということになります。聖書の一節を暗記することも、意味があるかもしれません。
 
 血の滴るステーキをいくら食べても霊的ないのちにはつながらない気がしますが、座禅や瞑想のような呼吸を整えることはどうでしょう? メンタルヘルスにはいいかもしれません。
 
 信者個人個人の中にどれだけ多くの「いのち」が流れ込んでいるかは、人格にどれだけ「御霊の実」(ガラテヤ5章22、23節)が実を結んでいるかで伺い知ることができます。では、教会に「いのち」が溢れているかは何によって知ることができるのか? 私の考察はまだまだ続きます。