秋田書店と言えば、昔の人なら「ブラック・ジャック」、比較的若い人なら「浦安鉄筋家族」でしょうか。
でも忘れちゃいけません。「釣りキチ三平」もあります。小学生のころ、釣り少年だったので、よく読みました。
その中に「紀ノ川の夏」というストーリーがありました。ミュージシャン目指して故郷を出た若者が古里へ帰り、投網によるアユ漁に挑む--という話だったと記憶しています。
それを読んで以来、私の中にはずっと和歌山県・紀ノ川へのあこがれがありました。長じてからは、有吉佐和子の「紀ノ川」を読み、ますますその思いを募らせたのでした。余談ですが、「紀ノ川」は素晴らしいJブンガクです。未読の方は、ぜひ。
会社に入ってから、ずっと九州各県を回っていました。2014年、キャリアパスで松山支局に転勤になり、「関西が近くなった」ので、大学時代の友人たちとの同窓会を企画しました。
往路は関空までLCCを使うことにしました。関空って、関西を掲げていますが、ほとんど和歌山との境なんですよね。せっかくなので前日から入って、和歌山まで足を伸ばすことにしました。
レンタサイクルで紀ノ川沿いをずっと走りました=写真。好天に恵まれたこともあって、本当に心躍る半日旅行でした。印象的だったのは、川沿いにずっと果樹畑が広がっていたことです。モモ、ハッサク、キウイ、カキ。豊かさを感じました。きっと、目に見える川の流れ以外に豊富な地下水があって、それが数々の果物を育んでいるのだろうと思いました。
豊かな流れのほとりで
人はなぜ聖書を読むのでしょうか。
答は人によりけりでしょうが、私の場合は、聖書に流れる原則や教訓を学び、それを日常生活の中で実践していくためです。以前、吉野源三郎原作の漫画「君たちはどう生きるか」がベストセラーになりましたが、私にとっては聖書にその答のすべてが書いてあるのです。
旧約聖書の「詩篇」の第1編が、大好きです。
幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
幸いな人とは、主の教え--これはモーセの律法のことなのですが、私は聖書全体だと解釈しています--を喜んで学び、実践する人である、と聖書には書かれています。
幸いな人とは、主の教えを喜んで学ぶ人である、と聖書には書かれています。この詩の作者は、イスラエルで最も尊敬されている人物の一人、旧約時代のダビデ王ですから、「主の教え」とはモーセの律法と解すべきでしょうが、新訳時代に生きる私はこれをさらに一歩進めて「幸いな人とは、聖書を喜んで学び、実践する人である」という教訓を導き出しました。
木が実をならせ、繁栄の象徴のように緑を茂らせるためには、水路の「そばに」植えられていることがポイントです。水源から離れれば、実は貧弱で葉も枯れやすい。木も実も水路も比喩ですが、何を指しているかと言えば、木は私たち自身、実は人生における成果物、そして水路を流れる水とは聖書の言葉であり、聖霊による取り扱いだと、私は考えています。水源から離れて自分の力に依り頼むようになったらだめだよ、と。
これはほんの一例ですが、聖書にはさまざまな原則や学ぶべき教訓が記されています。クリスチャンとはもちろんイエスを神の御子と信じる人のことですが、私はさらに一歩進めて「日々聖書の言葉に学び、実践する人」であると定義したいと思います。