イエスの一番弟子はペテロです。ペテロは漁師でした。イエスはペテロの舟に乗り、舟上から群衆に説教します。
話が終わった後、イエスはペテロに言います。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい」
ペテロは言います。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう」
私が俳優でペテロを演じるなら、ここはイエスに目を合わせず、舟を漕ぎながら、気の乗らない口調で話すでしょう。彼の心の声を文字にするなら、こんな感じです。
(何言うてんねん。オレは漁師や。アンタは大工の子や。プロのオレらが一晩中網を下ろしたのに何も捕れんかったんやで。素人のアンタに何が分かんねん。でもまあ、目上の人やから、ここは一応聞いとこか……)
あにはからんや、網が破れ、舟が沈みそうになるぐらい魚が捕れました。
聖書はこう記します。「ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。『主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから』」
私が俳優なら、「主よ」のところは「主よ!」ぐらい力いっぱい叫ぶでしょう。「ひれ伏して言った」という記述に、ペテロのイエスに対する認識が劇的に変わったことが示されているからです。ただの「偉い先生(ラビ)」から、「人生の主」へと。
弟子たちの認識はこの後も、「先生」と「主よ」を行ったり来たりします。イエス自身「あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから」(ヨハネの福音書13章13節)と、その二面性を認めています。
最終的にペテロは完全に目が開かれて(3度に渡るイエスの否定と復活のイエスによる許し、何より聖霊降臨によるのですが)、新約聖書「ペテロの手紙」を記します。ペテロが捕った魚の多さは、ペテロを通して救われる人の数を予表しているようです。
偉い先生どまりでいいのか
世の中の大多数は、イエスを「自分に無関係だ」と思っているでしょう。せいぜい、「キリスト教の創始者で歴史上の偉い人」ぐらいの認識でしょうか。ごく少数ですが、信仰しないまでも、キリスト教や聖書を研究対象とし、イエスを「偉い先生」とまでは認める人はいます。
でも、本当に大事なのは、ペテロのように劇的に回心し、「あなたこそ私の主です!」と告白することです。あなたにとってイエスとは、どんな方ですか?