わが家は毎年、クリスマスと娘の誕生日を、まとめて祝います。みんなでごちそうを準備して、妻が賛美歌をリードして、私がショートメッセージする、ささやかなものです。
以下は2020年の「おうちクリスマス」でのショートメッセージです。あまり褒めてくれない妻が「分かりやすかった」と言ってくれました。
聖書を開きましょう。ルカの福音書1章26~38節です(以下は一部を省略)。
この処女は、名をマリアといった。
御使いは彼女に言った。「あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」
マリアは御使いに言った。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」
御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。神にとって不可能なことは何もありません。」
マリアは言った。「あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。
大変有名な箇所です。ここだけだと、ありきたりのクリスマスメッセージにしかならないので、次にルカの福音書1章10~20節です。
すると、主の使いが彼に現れた。
御使いは彼に言った。「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい」。
ザカリヤは御使いに言った。「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。」
御使いは彼に答えた。「この私は神の前に立つガブリエルです。見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。私のことばを、あなたが信じなかったからです。」
次に創世記18章1~12節です。
彼が目を上げて見ると、なんと、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはそれを見るなり、彼らを迎えようと天幕の入り口から走って行き、地にひれ伏した。
彼は言った。「主よ。水を少しばかり持って来させますから、足を洗って、この木の下でお休みください。私は食べ物を少し持って参ります。それで元気をつけて、それから旅をお続けください。」
彼らはアブラハムに言った。「来年の今ごろ、あなたの妻サラには男の子が生まれています。」
アブラハムとサラは年を重ねて老人になっていて、サラには女の月のものがもう止まっていた。
サラは心の中で笑って、こう言った。「年老いてしまったこの私に、何の楽しみがあるでしょう。それに主人も年寄りで。」
創世記に登場する「3人」のうち1人は受肉前のメシア(アブラハムが「主よ」と呼び掛けている)で、あとの2人は天使でしょう。ルカの福音書に登場するのはガブリエルです。人間の側は、イエスの母マリヤ、マリヤの親類で祭司のゼカリヤ、イスラエル民族の祖アブラハムとその妻サラです。
4人に共通するのは、まず「主の使いに出会った」ということです。そして、子どもがなかったが高齢のため子どもを持つことが難しいと考えていた(ゼカリヤ、アブラハム、サラ)か、そもそも結婚前で子どもを持つなんて考えもしなかった(マリヤ)ということです。つまり4人とも、条件は似たようなものでした。
4人に共通しないのは、対応です。ゼカリヤとサラが主の使いの言葉を信じなかったのに対し、マリヤは素直に受け入れ、アブラハムについては明記はされていませんが少なくとも否定はしなかった、おそらく「この方たちは理解しがたいことを言っているが、主がそう言っておられるのだからそういうこととして受け入れよう」ぐらいの心境ではなかったかと思います。
現代に生きる私たちに、神は、聖書を通して語り掛けられます。あるいは、出来事や他者を通して語り掛けられます。その時、それが、自分には受け入れがたい、理解しがたい言葉であっても、決してゼカリヤやサラのような対応を取りたくないと思います。「あなたのおことばどおり、なりますように」と言った、マリヤのようでありたいと思います。アブラハムのように、何より先に主の権威にひれ伏すものでありたいと思います。アーメン?