高2に語るマタイの福音書27

No Cross, No Crown

(10章)

中心聖句

 自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。(38節)

解説

 10章で十二弟子が紹介されます。イエスは彼らを伝道の旅へと派遣するにあたって、その心得や注意点を縷々説明します。
 
 「金貨も銀貨も銅貨も持って行くな」などは、当時の文化や歴史的文脈の中で理解しなければいけません。そのまま現代に適用してはいけません。
 
 「わたし(イエス)は、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来た」も、ここだけ切り出すと大変物騒な文言になってしまいます。常に文脈で読むことが大事です。
 
 有名な「蛇のように賢く、鳩のように素直であれ」は、創世記3章の蛇に対する記述が従来の「狡猾」から新改訳2017で「賢い」になったので、すっきり理解できるようになりました。

適用

 「自分の十字架を負って従え」とイエスは言います。私たちが背負うべき十字架とは試練、苦難、自己犠牲、愛、恥、奉仕などと言い換えることができます。
 
 クリスチャンになることは、ストレスフリーな生活を手に入れることではありません。逆です。私は自分に「読書と映画鑑賞合わせて年間100作」(略してインプット100)を課し、実際にはその倍以上インプットしている訳ですが、それは、私の財産である可処分時間を犠牲にし、そのような苦業を日常化することによって、イエスの歩んだ苦しみのヴィア・ドロローサに私も続くためなのです。
 
 このように書くと「クリスチャンって歯を食いしばって頑張る人なの? しんどそう……」と思われそうですが、それは誤解です。他のページに散々書いているように、私と家族はとても幸せに暮らしており(笑)、日々感謝は絶えません。ただ、その幸せは一過性の薄っぺらいものではなく、苦難と表裏一体となったものなのです。
 
 あなたが今もし苦しみの中にいるなら、あなたはイエスの十字架を背負っています。それは、イエスの与える恵みと祝福の、とても近くにいるということでもあります。