啓示の量とさばきの大きさ
(11章)
中心聖句
おまえたちに言う。さばきの日には、ツロとシドンのほうが、おまえたちよりもさばきに耐えやすいのだ。(22節)
解説
11章は「啓示の量」という補助線を引くと理解が早いです。啓示とは神についての知識です。内発的な悟りと違い、「神から与えられる」知識です。啓示に対しては2種類の反応しかありません。受け入れるか、(無関心を含めて)受け入れないか、です。つまずきとは後者のことです。
バプテスマのヨハネですら、一時的にはイエスにつまずきました(1~6節)。幽閉に伴い啓示の量が同時代人に比べ著しく制限されたことも要因でしょう。
そんなヨハネを、イエスは決して批判しません(7~19節)。「女から生まれた者の中でバプテスマのヨハネより偉大な者は現れなかった」とは、「啓示の量においてヨハネ以上のユダヤ人はいなかった」と考えれば良いでしょう。偉大さや業績はやはりアブラハムやモーセの方が上ですが、メシアにバプテスマを授けたアドバンテージがあります。
「天の御国で一番小さい者(=新約時代の聖徒)でさえ、彼(ヨハネ)より偉大です」も、啓示の量においてです。私がヨハネより偉大なはずないじゃないですか(笑)。聖書によって神の計画全体を知る立場になった点でヨハネ以上、という意味です。
12節の「激しく攻める者たち」は当時のユダヤ社会の指導者層で、イエスを拒否した(=つまずいた)人の筆頭です。
20~24節でコラジン、ベツサイダ、カペナウムがツロ、シドン、ソドム以上のさばきに合うと言われているのは、それらの街(の人々)がイエスのさまざまな奇跡を目撃し、啓示の量において圧倒的だったのに、イエスを拒否したからです。25節「知恵ある者や賢い者」も当時の指導者層のことです。
適用
啓示の量とさばきの大きさは比例する、と聖書は教えます。啓示の量は、アブラハム<ヨハネ<新約時代の聖徒です。さばきの大きさは、ツロ<コラジン<●●●●です。●●●●には何が入りますか? 新約時代(=恵みの時代)の街の名前です。
ああヨコハマ、ああニューヨーク、おまえたちに与えられた啓示の量が、コラジンやベツサイダに与えられていたなら、彼らはとうの昔に悔い改めていたことだろう。おまえたちに言う。さばきの日には、コラジンとベツサイダのほうが、おまえたちよりもさばきに耐えやすいのだ。
25節以降は、どのような人がイエスを受け入れたかを、そしてどうすればいいかを教えます。幼子のように素直な心を持つこと(25節)、イエスの元に安らぎを求めに行くこと(28節)です。現代に生きる人たちが一人でもイエスを受け入れるよう、つまずかなかった私たちは、全速力で人々に福音を伝え、啓示の量に相応しい働きをしようではありませんか。