高3に語るマタイの福音書34

至らぬ者ですが……

(17章)

中心聖句

 そこでペテロがイエスに言った。「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ」(4節)

解説

 ①変貌を目撃した3人の弟子(1~13節)②悪霊を追い出せなかった9人の弟子(14~21節)③2度目の受難の予告(22、23節)④神殿税を巡る小さな奇跡(24~27節)--から成ります。ここでは特に①と②を取り上げます。
 
 ヘルモン山の山頂でイエスのシャカイナ・グローリーが解き放たれ、さらにモーセとエリヤ(律法と預言者代表=旧約聖書代表)が表れます。圧倒的な啓示の量に、同行したペテロたちの理解は全く及ばず、トンチンカンな対応しかできません。
 
 山を下ると、ある父親が訴えます。「息子に取り憑いた悪霊の追い出しを(残る9人の)弟子たちに頼んだが、一向に治らない」。イエスは彼らに悪霊を追い出す権威を授けていましたが(例えばマタイ10章1節)、弟子たちの信仰が薄かったために再現することができませんでした。
 
 「それから、弟子たちはそっとイエスのもとに来て言った」(19節)という表現からは、9人の弟子たちの恥じ入った様子が伺えます。

適用

 3人の弟子も、9人の弟子も、「至らぬ者」という面ではどっこいどっこいです。ですが、私たちは、彼らのことを笑えるでしょうか?
 
 聖書の完成によって神の啓示は完了しました。神とそのご計画に対する情報量は、弟子たちに比べ圧倒的なアドバンテージがあります。では、同じだけ信仰も増しているでしょうか?
 
 「からし種ほどの大きさもない」と言われた弟子たちの信仰。これはイエスの誇張表現で、とてもとても小さいという意味ですが、新約聖書の時代を生きる私たちも、至らぬ者とはいえ、せめて「からし種くらいの大きさの」と言われる信仰を持ちたいですね。