披露宴への招待状
(22章)
中心聖句
それから王はしもべたちに言った。「披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい」(8、9節)
解説
①披露宴への招きのたとえ(1~14節)②納税を巡るパリサイ人・ヘロデ党との論争(15~22節)③離婚を巡るサドカイ人との論争(23~33節)④律法を巡るパリサイ人との論争(34~46節)--から成ります。前章に続き、イエスとユダヤ人支配層の間で火花が激しく散っています。
その昔、教会の本棚にあった「刈り取り伝道」という本を読みました。8、9節を引用して、「誰でもいいからその辺にいる人をとにかく教会に連れて来てイエスを信じさせなさい」という趣旨に、随分違和感を覚えました。
長いクリスチャン生活の中で、聖書を読む上での原則のようなものを学びました。それは①聖書は文脈で読まなくてはいけない=一部分だけを切り取ってはいけない②イエスと聖書の民はユダヤ人なので、ユダヤ人の歴史や文化を踏まえて読まなくてはいけない--です。
その2点を適用すると、1~14節の王=父なる神▽自分の息子=子なる神▽婚礼・披露宴=子なる神の来臨▽しもべ=預言者▽招待客=ユダヤ人▽大通りにいる人=異邦人--であると分かります。神がユダヤ人を招待したのにユダヤ人(特に指導者層)がイエスを王として迎え入れなかったために彼らの国が滅ぼされ(西暦70年にそうなる)、福音が異邦人へと渡ることが預言されています。
適用
披露宴は異邦人招待客(=信者)でいっぱいになりましたが、一人、インチキして礼服を着ずに天国の宴に潜り込もうとした人がいました。礼服を着ていないということは、イエスをキリストとして受け入れていない=イエスが与える「義の衣」をまとっていないということです。
王はその人を、外の暗闇(=地獄)に放り出すよう命じます。
聖書は決して「誰でもいいから連れて来い」なんて言っていませんが、招待状は、これを読んでいるあなたにも届いています。イエスという義の衣を来て披露宴に臨むかどうか、2000年前のたとえ話が問うものは、今なお有効です。
追記:妻が言いました。「せっかく豪勢な披露宴を用意したのに、招待客が来なかった時、神様は、どれほど悲しかっただろう。そう思うと、胸が痛い」。神様を悲しませる、これこそが罪の本質なのだと思います。