先日、娘の高校の文化祭で「これだ!」と思うことがありました。
高校は定時制のため、第4学年まであります。文化祭のステージの部で、3年生と4年生が、示し合わせた訳でもないでしょうが、それぞれ桃太郎に関する演劇を披露したのですが(「鬼滅の刃」の影響でしょう)、それを見ながら、「これは聖書解釈のたとえにピッタリだ」と気づかされたのです。
聖書の解釈手法には、主に①比喩的解釈②霊的解釈③象徴的解釈④字義通りの解釈--があります。桃太郎を例に説明しましょう。題して「もしも桃太郎の話が聖書にあったら」。
①比喩的解釈
山田さんと鈴木さんの家はいつも喧嘩しているので、これを物語にしたら面白いだろう。けど、実名では角が立つ。そこで山田さんの家を桃太郎と犬猿雉、鈴木さんの家を鬼たちと置き換えてお話を作ろう。
②霊的解釈
桃太郎と犬猿雉は、神に従おうとする善なる心、霊的な、新生した自分を擬人的(擬獣的?)に表したものである。一方、鬼たちは、サタンに誘惑される悪しき心、肉的な、古い自分を示している。両者は心の中で激しい戦いを繰り広げるが、最後は前者が勝つ。
③象徴的解釈
人語を解す動物や鬼なんている訳ないじゃん。そんなの信じて馬鹿じゃないの? 鬼というのは、その昔、外国の船が難破して、ある島に漂着した外国人がいたんけど、彼らは日本語が通じないし、白人の肌って赤味がかってるし毛深いでしょ。だから昔の人は象徴的に「赤鬼」と理解するしたんだよ。外国人たちが度々村を襲って食料を奪ったので征伐隊を結成したんだけど、隊長が桃好きだったので桃太郎、あとの3人は犬みたいに忠実だったり、猿みたいに機敏だったり、雉みたいな顔をしてたから、そういう綽名がついたんだよ。
④字義通りの解釈
聖書に「桃から生まれた桃太郎や、人語を解す犬猿雉、赤鬼がいた」と書いてあるのだから、素直にそのまま信じればよい。著者の意図をこちらで変に捻じ曲げるべきでない。
私のようなディスペンセーション神学の立場の人は、「一貫した字義通りの解釈」を非常に大事にします。むろん一字一句に拘泥するのでなく、比喩は比喩、象徴は象徴と文脈から判断します。イエスが「わたしは門です」と言うくだりがヨハネの福音書にありますが、誰も「イエスは大理石だったのか……」とは取りません。ヨハネの黙示録に「獣」とありますが、誰も四本足の野獣とは解しません。反キリストを指しているのだと理解します。
ディスペンセーション神学以外の、キリスト教福音派と呼ばれる人たちは、基本的には字義通りの解釈です。ヨハネの黙示録やダニエル書、エゼキエル書などになると比喩的解釈、霊的解釈、象徴的解釈を持ち出して理解しようと努めることはありますが。
一方、メインストリームを自認している自由主義神学、エキュメニカルの人たちは、「そんなの信じてるの? 馬鹿じゃないの」というような、例えばノアの箱舟の話やイエスのさまざまな奇跡など、「人間の理性を超える」記述については、比喩的解釈、霊的解釈、象徴的解釈を駆使して、何とか理性の枠に収めようとします。
神学的立ち位置の数だけ、聖書を解釈する「フィルター」があります。フィルターが違えば、見える景色も違います。お互いの立ち位置や景色を尊重しながら、お互いに何か学びあうのがよろしいのではないかと、私は考えます。自らの正当性を声高に主張して、相手の立ち位置を批判・非難するのは、美しくないですね。