友人の勧めで杉岡良彦著「共苦する人間」を読みました。医学哲学という分野から、宗教と医療について考えた本です。学術書なのでサクサクという訳にはいきませんでしたが、内容が充実しているのと筆致が丁寧なので、私のような素人でも問題なく読み通すことができました。年に数冊、このレベルの本が読めると、人生が豊かになります。
まずは同書の中で特に響いた箇所を引用したいと思います(孫引きですが)。
人間は存在を見通し、存在はみずからを苦悩する人間に開示します。 つまり、根底への展望が開かれるのです。深淵の前に立って、人間は深みに見入ります。その時人間がその底に見て取るもの、それは現存在の悲劇的構造です。 そこで人間に開示されるものは人間存在が最深かつ最終的に受苦[Passion] であるということ、人間の本質は苦悩する人間、苦悩人(Homo patiens)でもあるということです。(フランクル2004b、一三三頁。括弧は引用者による)
生物学的人間像に対して、私たちは精神学的(ノオローギッシュ)人間像を掲げたいと思います。知性人(ホモ・サピエンス)に対して苦悩人(ホモ・パティエンス)を対置させたいと思います。 (中略) パティ・アウデ (pati aude)、あえて苦悩せよ。
この敢然さ、この苦悩の勇気--これこそが重要なのです。苦悩を引き受けること、運命を肯定すること、運命に対して態度を取ることが大切なのです。(同、一三五頁)杉岡良彦「共苦する人間」P199~200より引用
わたしたちは苦しみを避け、苦しみから逃れることによっていやされるのではありません。むしろわたしたちがいやされるのは、苦しみを受け入れ、苦しみを通して成長し、キリストと一致することに意味を見いだすことによってです。 (ベネディクト一六世2008、七四頁)
※原典は回勅「希望による救い」
人間であることの真の基準は、苦しみと、苦しむ人との関係によって根本的に定められます。(中略)個人が人の苦しみを受け入れることができるには、その人が苦しみに意味を見いだすことができなければなりません。苦しみは清めと成長のための道であり、希望への歩みだからです。(同、七七頁)同P204~205より引用
どうですか? シビれませんか?
生まれたばかりの子に難病が見つかった時。愛する人を失った時。大災害に遭った時。さまざまな場面で人は「神がいるなら、どうして(私だけが)このような苦難に遭うのか」と疑問を持ちます。それもむべなるかな、と思います。
ですが、こうも考えてみたいのです。人は生きている限り、苦しみをゼロにすることは絶対にできない。努力やお金では如何ともし難い領域が存在する。
むしろ苦難や苦痛は、神が、人を、ご自身の方へ向き直させる、最もポピュラーな道具である。神の光で照らすことなしに、人は、苦痛の意味を本当には理解できない。神は、苦痛の向こう側にご自身を啓示し、神との関係の中で癒やされることを願っておられる(VRゴーグルが提供するメタバースは苦痛から逃避させてはくれますが、意味や癒やしは与えてくれません)。
キリスト教の神は、ある意味で「共苦する神」です。父なる神は子を十字架にかけたことによって、子なる神は過越の仔羊となることによって、あるいは大祭司として取りなす中で。聖霊なる神は苦しむ私たちと共にいる事によって、それぞれ苦しまれ、あるいは苦しみを共にしてくださっています。
最近の教会は苦難についてあまり語らなくなりましたが、この分野こそ、キリスト教界が声を大にして語っていかなければならないのだと思います。