死後のさばきと報い

 前回触れなかったことに「死後のさばきと報い」があります。今回はこの点について説明しましょう。今回もハードですよ。
 
 聖書は言います。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)
 
 テモテへの手紙第二4:7~8やヨハネの黙示録22:12を読むと、イエスを信じた者には報酬や冠が与えられることが分かります。
 
 どのようなご褒美が与えられるかを判定するのが、信者向けのさばき(ローマ人への手紙14章10~12、コリント人への手紙第二5:10)です。
 
 これまで、イエス・キリストによる救いは一方的に、神からの恵みによって与えられ、私たちは「ただ受け取るだけである」と説明してきました。これに対し、報いの大きさは、私たちがイエスを信じた後どれほど神に忠実に生きたか、神の前に価値のある行いを重ねてきたかに比例します。
 
 ローマ人2:6~7、コリント人への手紙第一3:11~15、同4:2~5がその根拠です。
 
 キリストという土台の上に、金や銀、宝石--神の目に価値のあるもののたとえ--で建物を建てれば、炎のように厳しい神の判定にさらされても、それらは残るでしょう。しかし木や草、わら--神の目に価値のないもの--で建物を建てれば、建てた本人は助かりますが(=地獄に行かない)、建物は焼失します。
 
 さて、報いの内容です。
 
 初めての方へで書いたように、イエスは再び地上に来られ(ゼカリヤ14:4、マタイの福音書24:30、使徒の働き1:11、テトスへの手紙2:13)、世界を統治すると聖書にあります。統治期間は1000年で(ヨハネの黙示録20:6)、業界用語ではそれを「千年王国」または「メシア的王国」と呼びます。
 
 コロサイ人への手紙3:24には「御国を受け継ぐ」とあります。また、マタイ25:14~30とルカ19:12~27はそれぞれ、タラントの例え、ミナの例えと称されるエピソードですが、これはキリストの再臨時における報償と裁きを教えた箇所です。これらから類推するに、信者には千年王国において土地または役職が与えられることが報いの一つであると考えられます。この世で何をなしたかによって、土地の大小が決まったり、役職の高低が決まるのではないかと考えられます。その意味で、この世は、来るべき世に備えたトレーニングセンターとも言えるでしょう。
 
 しかし、究極の報酬は、冠を受けることです。
 
 聖書には、五つの報いの冠が記されています。①朽ちない冠(コリント人への手紙第一9:24~25)②望み、喜び、誇りの冠(テサロニケ人への手紙第一2:19)③義の栄冠(テモテへの手紙第二4:8)④栄光の冠(ペテロの手紙第一5:4)⑤いのちの冠(ヤコブの手紙1:12、黙示録2:10)--です。
 
 ①は劣化しない資産、②は神と共に永遠を生きる喜び、③は神からの無罪証書、④は天国で神のご性質を分与されること、⑤は文字通り永遠のいのち--を、それぞれ比喩的に指しているものと考えられます。
 
 これ以上の報酬があるでしょうか(いや、ない)?

恐るべし「白い御座のさばき」

 イエスを信じずに死んだ者には、火の池に投げ込まれる前に「白い御座のさばき」が待っています(黙示録20:11~12)。そこで開かれる「数々の書物」には、人生においてどのように生きたかが記されており、地獄でどの程度の苦しみに遭うかも、それに比例します。おーこわ。
 
 ということは、どちらのコースに進むにせよ、やはり生きている間になるべく多くの善をなしておく方がいいように思います。ただ難しいのは、どれほど善行を積んでも、それが神の目に意味あるものでなければ、ただの「ひとりよがり」で終わってしまうことなんです。
 
 旧約時代、ユダヤ人の中でもパリサイ派と呼ばれる人たちは、律法を守ることに特に熱心でした。でも、律法を守ることが自己目的化してしまったり、他者の賞賛を浴びるためになってしまったり、口伝律法といって、自分たちで勝手に律法の外側に独自の律法を作ったり……で、ひとりよがりな善行を積み上げて神の御心からは遠く離れていたのに、パリサイ派にはその自覚がなかった。
 
 まあ、聖書を学んだクリスチャンであっても、自分のやっていることがどこまで神の御心に適っているかなんて、到底確信は持てないんですけどね。「御心にかなっているといいなあ」と迷いつつためらいつつ、の毎日です。