罪~迷わずにSAY YES

 私が音楽に興味を持つきっかけは、中学生のころに発売された「グーニーズ」という、映画を元にしたテレビゲームでした。ファミコンが鳴らすピコピコ音(映画の主題歌を3和音に落とし込んだもの)が、斬新に聞こえたのです。それからはずっと、ゲームの音楽を聞いて育ちました。ああドルアーガ、ああイース……。
 
 世間並みに歌謡曲なるものを聞くようになったのは、大学生のころでした。ちょうどトレンディードラマ(死語)「101回目のプロポーズ」とCHAGE&ASKAの主題歌「SAY YES」が大ヒットした時期で、当時好きだった女性がファンだったので、聞くようになったんですね。
 
 キリスト教を理解する時「罪(または原罪)」は絶対に外せない概念です。「罪」を理解するのに、「SAY YES」がとても参考になります。
 
 人を殺せば刑法上の罪になりますが、キリスト教の罪はもっと広い概念を含みます。心の中で「アイツを殺してやりたい」と思うことすら「罪」です。つまり、キリスト教における「罪」とは「神に背を向けて自己中心的に、好き勝手に生きることから派生する、すべての神を悲しませる行為/思い」です。
 
 神が人間を創造したのは、神と人がフェイス・トゥ・フェイスの関係、互いの間が愛に満ちた関係を築くためでした。そう、「SAY YES」のサビの歌詞と同じです。すなわち「愛には愛で感じあおうよ」。
 
 しかしアダムの堕落以降、人の心には、取り除くことができない、生まれながらの罪=原罪が入ってきて、人は神に背を向け、神を悲しませるようなことばかりするようになりました。「罪から来る報酬は、死やで」と聖書は教えます。この「死」というのは、誰もが迎える肉体的な死ではなく、霊的な死、つまり永遠の刑罰(こわー)のことです。
 
 自分の力で罪を取り除くことができない人間を救うため、神はイエスを地上に送られました。クリスチャンとは、罪を犯さない、欠点のない人ではなく、自らの罪を自覚しつつ、イエスを心の中心に受け入れ(=自己中心から神中心)、神と「愛には愛で感じあう」日々を送ろうとする者のことを言うのです。クリスチャンになるのに、遅すぎるということはありません。何の条件もありません。「ただ信じて受け入れる」だけです。
 
 受け入れるとどうなるか。天国へのチケットがもらえます。ドラマの名セリフ「僕は死にましぇん!」を思い出してください。肉体の死を迎えても、魂は死ななくなるのです。
 
 神は今日も語っています。「あなたは、私のひとり子イエスを救い主として受け入れるか?」と。迷わずにSAY YES、です。