忖度せず、脅しもせず

 キリスト教の教えはシンプルです。人はみな罪人である。イエスは全人類の罪を贖う(償う)ために十字架で死なれた。イエスをキリストとして受け入れた者は「無罪」とされ死後に天国へ行けるが、そうでない人は天国とは比較にならない苦しい世界へ行くしかない。
 
 若者伝道に力を入れている教会(=若者が多い教会)を覗いてみたり、キリスト教の入門書(イラストの感じや文字・行間・余白の大きさからして、想定読者は若者)を読んで気付いたことがあります。
 
 「本当に厳しいことは言わない/書かないなあ」です。
 
 厳しいこととは、神は愛なる方であるのですべての人がキリストにあって無罪とされることを望んでいるけど、キリストを拒否した人には義なる神の面の厳しい裁きが待っている、ということです。耳に痛いことを言うと、若者に敬遠されるからでしょうか。
 
 逆の経験をしたこともあります。「恵み」を看板に掲げている、四国のある教会でのことでした。牧師のメッセージが、あるタイミングでガクンとギアチェンジし「イエスを信じない者は地獄に行くしかない! 今悔い改めなければならない!」と脅迫調に。
 
 確かに聖書はそのように教えているのですが、不安や恐怖を煽る伝道スタイルって、どうなんでしょう。カルトと変わらないと思うのですが。礼拝後、私がそそくさとその教会を去ったのは言うまでもありません。
 
 「厳しいこと」を語らないのも問題だし、強調し過ぎるのも問題です。
 
 
 
 旧約聖書の「エゼキエル書」を少しずつ読んでします。「旧約聖書の黙示録」と言われるほど難しい書なので、あっちの解説書、こっちの解説書を開き、理解の幅を広げています。
 
 旧約聖書における「三権能」は祭司、預言者、王で、イエス・キリストはこの三権能の役割を一人で果たしているのですが、エゼキエルは祭司かつ預言者という、二権能を兼ねた珍しい人です(ちなみに、祭司兼預言者は3人いて、あとの2人はエレミヤとゼカリヤ)。
 
 エゼキエル時代のイスラエルの民は、他の神を礼拝したり罪に耽ったりと、それはひどい生活を送っていました。神は民に警告を発するため、エゼキエルを代理人として立てるのですが、その際、彼にこのように言います。
 
 「ええか、あんたが行く道はいばらの道や。あいつら(=イスラエルの民)は代々むちゃくちゃ頑固やから、耳貸さんやろ。でもな、びびったらあかん。お前さんはわたしのことばを語るんや」(エゼキエル書2章5~7節を意訳)
 
 ここからは、神の目における「成功の基準」が、神のことばを忠実に、人々の顔色を恐れずに語ったかにあり、結果にはないことが分かります。結果が出たかどうかが基準なら、イスラエルの民を悔い改めに導けなかったエゼキエルは、失敗者ということになります。
 
 これは、現代に生きる私たちクリスチャンも考慮すべき、大事なポイントだと思うのです。「教会運営が成功しているかどうか」を、結果が出ているかどうか、特に若い人が多く集っているかどうかで判断する傾向があるように思うからです。
 
 耳に痛いことでも必要なら大胆に、でも脅迫調にならないようバランス良く語る。神の目は気にしても人の顔色は気にしない。数字で表せることに一喜一憂しない。
 
 私自身も、この小さなWebサイトで発信する身として、このことを常に心掛けたいと思います。