拙宅に、JKの長女の友人が遊びに来ていました。リビングには長女の弟たち(私から見れば長男、次男)もいて、確か夕食を作っていたのですが、それを見たJK友人のセリフが印象的でした。
「わ、スペック高っ!」
スペックってspecificationの略じゃないですか。工業製品のカタログに記載されてる「仕様」のことですよね。おそらく、JK友人は「能力が高い」「(男子なのに)料理もできるんだ」という意味で使ったのだと思いますが、人を「彼/彼女にはどのようなスペックがあるか」という観点で見ることを、「機能論的人間観」と言います。
対義語は「存在論的人間観」です。つまり「あなたがいてくれるだけでいい」。能力の有無は関係ない。
人間って、最初は存在論から入るんですよ。赤ちゃんや幼児って、スペック上は何もない。でもただただ愛おしい。それは存在論で見ているからですよね。
早ければ小学校に入る前、遅くとも中学校から、機能論が入ってきます。義務教育でも、中学校に入ると明確に試験による順位づけが始まりますよね。つまり「彼/彼女はどのぐらい勉強できるか」というスペックで評価するようになる訳です。
勉強できなくても、他にスペックがあればいいんです。運動ができるとか、絵が上手だとか、男前/美人であるとか、人を笑わせる才能があるとか。それらは天賦の才であったり、努力によって磨きをかけたものであったりします。
日本の高校・大学は、明確に「偏差値」というスペックで序列が決まっています。会社に入れば、年収がどのぐらいか、社内の地位は、結婚しているか、子供がいるかまで、いろんな指標で評価されます。余談ですが妻の職場には、「肌の美しさ」が死活的に重要なスペックであるという同僚がいます。まあ大変。
でも、人間の価値って、本来、スペックではかれるものでしょうか?
スペックで評価される人って、ほんの一握りじゃないですか?
持たざる人は、永遠に〝カーストの下層〟ですか?
持ってる方、「私を評価して!」と声高にアピールし続けるって、しんどくないですか?
ありのままの私じゃだめですか? そのまま受け入れてもらえませんか?
いてくれて、ありがとう
キリスト教は本質的に、存在論です。
ある時、サムエルはんという預言者が、王様候補を探していました。目の前にイケメンがいたので「こいつや!」と思ったのですが、神様はサムエルに語り掛けました。
「コイツが男前か、背が高いかを見たらアカン。わたしは人が見るようには見ーへんからや。人はうわべ(スペック)を見るが、神は心を見る」
結果、選ばれたのは、ダビデという少年でした。聖書は彼の容貌について「血色の良い顔で、目が美しく、姿も立派だった」と記しています。目がきれいということは、心がきれいということなんでしょうね。
旧約聖書の「イザヤ書」には「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」とあります。「スペックがある人ほど愛する」とは書かれていません。教会には「スペックが低い人お断り」とは書かれていません。むしろ誰でもウエルカムです。
機能論で切磋琢磨することが悪いとは申しません。大いに結構です。でも、機能論の競争に疲れた方に私は言いたいのです。
「機能論で評価しない世界があるよ。教会は、あなたをありのままで受け入れてくれるよ」と。