Don’t think, feel!

メンタルヘルスと座禅

 思うところあって、先日、マインドフルネスを体験してきました。寺の離れのような施設の、茅葺屋根の下に作られたロフトのような空間で、座蒲(ざふ)という厚めのクッションにお尻を半分乗せ、半跏趺坐で、目は半分閉じ、ゆっくりとした呼吸で、自分の呼吸の回数を数えることだけに専念しました。
 
 約20分。騒音も次第に気にならなくなり、終わった後は随分頭がスッキリしていました。その後ふるまって頂いたお茶の、また甘かったこと(玉露?)。「姿勢が整えば息が整う。息が整えば心が整う」(身・息・心)の教えが今も耳に残っています。
 
 このころ、私のメンタルヘルスは「黄信号」でした。普段だったら流せるような他人のふるまいが気になるばかりか、気が付くと何度も反芻している。私はこれを「ハエが飛ぶ」と表現しているのですが、脳内をずっとハエが飛んでいる。こりゃいかん、というのがマインドフルネスを体験してみた一つの理由です。
 
 マインドフルネスだけが要因ではないのかもしれませんが、私のメンタルは少し回復し、ハエがめっきり飛ばなくなりました。座禅はその後も自室で日に1~2回続けており、特に座禅をしてから寝ると、とても寝覚めが良い。

知的な人か、霊的な人か。それが問題だ

 もう一つの理由は「霊性」です。
 
 私の信仰は知的な信仰であると、最も身近な信仰の友である妻から見なされています。聖書や神学についてよく学んでいるけど、頭デッカチである、と。
 
 逆に私から見れば妻の信仰は体験的・感覚的なのですが

(だって先日は「サマリヤ人」について説明できなかったんですよ)

、兎に角、私は妻にそう見なされるのが嫌なのです(涙)。知的な信仰者でなく、霊的な信仰者と言われたい(笑)。
 
 でも「霊」や「霊性」って、頻繁に使われている割に、定義するのが難しい。
 
 霊とは何か? 霊と魂はどう違うのか? 霊と魂は分割可能か不可分か? 知情意や人格は霊に宿るのか魂に宿るのか? 人為的に鍛錬可能なものか?
 
 こうした問いに、私は「なんとなく」しか答えられません。
 
 とりあえず、「霊」についての私の現時点の定義を述べておきます。
 
 「霊とは『非物質的なわたし』の本体であり、もう一つの『非物質的なわたし』である魂と共に、死後に肉体から分離され神の前に立つ。霊と魂が分割可能かについては判断を留保するが、私が読んだ神学書や周囲の牧師たちは『分割不可能』説に立っているので、とりあえずそれで良い。知情意が霊と魂のどちらに宿るか等は、答えられるだけの材料を現時点で持っていない」
 
 そのうえで「霊性」について考えてみたいと思います。
 
 参考になったのが、篠原明著「『霊性の神学』とは何か 福音主義の霊性を求める対話」(あめんどう)でした。
 
 同書から、何人かの神学者による定義を引用します。
 
 霊性とは……
 

●神との深いかかわりの状態(ジェームズ・フーストン)
 
●キリスト者として満ち足りた本物の生き方を追求することであり、キリスト教の土台となる信仰内容とそれに基づく生活のすべての経験を統合するものである(アリスター・エドガー・マクグラス)
 
●キリスト者が聖霊によっての栄光を反映するものとなるところである。霊性は三位一体の神のみこころとみわざから離れて存在するものではない。聖霊に助けられて神の恵みに応答していくところに霊性は形成されるのである(内田和彦)
 

 著者の篠原さんは「厳密な定義を超えたもの」としたうえで、「神学と生活を統合し、全体論的に捉える視点と実践であり、分断ではなく統合へと向かうもの、キリスト教信仰の全体像を描き、それを生きること、聖霊によって福音を生き抜くこと」と表現しています。
 
 いやあ、フーストンによる定義を除けば、分かるような、分からないような(笑)。
 
 北九州聖書教会の竹元紘牧師は(私の理解では)このように教えてくれました。
 

●神の御心と自分の心のチューニングがどれほど一致しているか=どれだけ神の主権と聖書にひれ伏しているか
 

 知性自体は神からの賜物である。知性が聖書の支えを受け、知性以上に神の主権と御計画を優先するなら、あなたは霊的な人と呼ばれるようになるでしょう、と(笑)。
 
 ハーベスト・タイム・ミニストリーズを主宰する中川健一牧師は「私たち(※注:信者)の心に宿る聖霊の声に瞬間瞬間従っていること」と述べています(クレイ「使徒の働き」から引用)。
 
 これらの所見を踏まえたうえで、私なりに「霊性」を定義すると
 

●父、御子なる神との深い交流の中で育まれるものである
 
●聖霊なる神にどれだけ「非物質的なわたし」を明け渡しているかである
 
●聖書の御言葉が人生に深く受肉することが不可欠である
 
●Don’t think, feel! なものである(アチョー!)
 

 ……となるでしょうか。

神のために時間と心のスペースを確保する

 キリスト教書店で「霊性」と銘打たれた本を買い漁った中で一つ気付いたことがあります。
 
 通勤電車の時間や締め切り時間に追われているうちは、絶対形成されない。神との関係深化のために時間を確保することなしに養われない。
 
 方法論として、座禅は有効な手段であろうと感じています。当面座禅による神との交流を続けてみて、検証してみたいと思います。
 
 いつか「山崎さんは霊的な人だなあ。うまく説明できないけど、確かに感じる」と言ってもらえるようになりたいものです。
 
 
 
 追記:「2012年フルクテンバウムセミナー『聖書が教える死後の世界』」DVD(現在はハーベスト・デジタルショップでMP3のみ販売中で、フルクテンバウム師が明解に定義していました。一字一句正確に起こした訳ではありませんが、おおむねこのような内容です。
 
 「肉体が皮膚、筋肉、血管、毛髪等さまざまな要素から成るように、『非物質なわたし』も霊、魂、人格、知性等さまざまな要素から成る」
 
 これ以上、明解な定義はないと思いますので、私はこの見解を採用したいと思います。