前髪カーラー事件

 
 娘が友人と外食に行くと、友人たちはまず、出された料理の写真を撮り始めるそうです。理由はもちろんインスタグラム。「映える」写真がものにできるまで、あれこれ構図を変えながらずっと撮っているそうです。娘はインスタグラムに投稿しないので、「冷めるとおいしくなくなっちゃうよ~」と先に食べ始めるそうですが、これは極めて少数派とか。
 
 先日、通勤電車で、ある光景を目にしました。娘とそう年齢の変わらない若い女性(女子と言うべきか)が、ピンク色の前髪カーラーを巻いた状態で電車に乗って来たのです=写真は長女につけてもらったもの。私は目が点になりました。それは洗面台の前で使うものではないのか? そのような姿で外に出ることに恥じらいというものはないのか? オジサンの戸惑いをよそに、彼女はひたすらスマホを操作していました。そして私と同じ駅で降り、何事もなかったかのように前髪カーラーを外してカバンに片付けました。
 
 娘に解説を求めました。「彼女の中では、知らない人たちの中でカーラーをつけた姿を見られるより、仲間うちで、前髪にカールがかかっていない状態を見られることの方が恥ずかしいんだと思うよ」  
 はあーっ。そういうものですか。昭和は遠くなったなあ……。
 
 
 
 インスタにせよフェイスブックにせよ、結局のところ「いいね」の数が多い人=価値がある人で、SNSに夢中な人ほど「いいね獲得競争」に心を奪われているのではないかと、SNSに全く興味のない古い人間は考えてしまいます。前髪カーラーの子にせよ、大事なのは「仲間うちでの承認」なんですよね。
 
 でも、承認されることをひたすら追いかけるって、しんどくないですか? 年がら年中「いいね」してもらえる話題に事欠かない人って、どれほどいるんでしょう? 「いいね」を求めるほど空虚感が広がるのではないかと思うのは、昭和生まれのおじさんだけでしょうか?
 
 キリスト教会は、基本的にそのような価値観とは無縁です。あらゆる人が来ていいし、誰もがありのままの姿でOK。「あなたはあなたのままでいいの。それで十分素晴らしいの」と承認してもらえる。だってあなたも私も、神さまの目には「とても大事な存在」と映っているのだから。
 
 でもスマホに夢中で、仲間うちの承認がすべての人に、それをどうやってそれを伝えたらいいのかなあ。いやあ、難問です。