前回、「器」の話をしました。器を大きくするのには時間がかかるので、なるべく器の中をシンプルにして、神さまの働く領域を大きくしたい、という内容でした。
今回は「さはさりとて、いかにして器を大きくするか」の話です。最初に「器」とは何かについて定義しましょう。簡単です。「器とは人格のこと」です。
再びウェイン・コデイロ牧師にご登場願いましょう。
2003年、阿蘇で開かれたクリスチャンの集会で、コデイロ師は4回講演しました。私は生ではなくビデオで見ただけですが、それでも衝撃を受けるには十分な内容でした。特にインパクトの強かった1回目の講演を要約すると、こうなります。
「神さまは私たち一人一人の中に『夢の種』を与えた。しかし、人格を養うことなしに、その夢は実現されない。この世で一番豊かな場所は『墓地』である。なぜなら、そこには実現しなかった夢の種がたくさんあるから。みなさん、墓地をこれ以上豊かにしてはいけない」
胸に響きました。今まで、そんなことを話す牧師は一人もいませんでした。「他の誰も言わないような事を言う人」に、私は価値を見出します。コデイロ師は、まさにそのような人でした。
この時、私は悟りました。「信仰と人格は表裏一体。どちらも、意識して成長させなければならない」
その後、私が取り寄せたコデイロ師の著書の中でも、同じことが強調されていました。「道端の宝石」という題のその本は、コデイロ師が3人の子どもに宛てた手紙をまとめた形式になっているのですが、その中に「宝石のはめこみ台」という話があります。
ある時コデイロ師は、3万ドルはするであろうダイヤモンドの指輪をはめた女性を見かけます。コデイロ師が着目したのは、大きな宝石を支える金属の指輪、つまり台座側(文中では「はめこみ台」)でした。
「はめこみ台は、ダイヤモンドほど人の目を引かないけれど、それと同じぐらい価値あるものなんだ。はめこみ台の強さと品質に、宝石の安定性と持続性がかかっているんだよ」とコデイロ師は記します。宝石とは、神さまが私たちに与える結婚、影響力のある地位、ミニストリー、財政、家族などのことを指します。
そして「人格とは、はめこみ台のようなもの」と続けます。神様は私たちにすばらしい宝石を与えることを約束してくださっている。しかし、人格という土台なしには、宝石は何かにちょっとぶつけただけで外れてしまう。だから私たちは人格を築き上げなければならない、それは私たちの責任だ、と。
人格の構成要素としては、新約聖書の「ガラテヤ人への手紙」を引用し、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制--を挙げています。
人格は心に宿ります。心は心臓にあるように思われがちですが、実際は脳にあります(もし心臓にあるのなら、人工心臓の人は心がない、ということになります)。
脳は比喩的な意味で〝筋肉〟でできていますから、嫌な思い、辛い思い、苦しい思い、理不尽な思いをに直面し、そこから逃げなかった時、それらが「負荷」となり、心が鍛えられます。竹内まりや風に言うと「大人への階段を一つ上った」ことになります。辛い経験をした人ほど、心が砕かれ、謙虚で、憐れみ深いのは、そういう理由だと私は考えています。
「聖書と日々の経験によって、信仰と人格を成長させる以外に大事なことはほとんどない」が私の確信であり、私の変わることない原理原則です。
余談ですが、私は管理職だった時に3人の新人を預かったのですが、彼らに最初に言った言葉はすべて同じでした。
「ええか、今から人生で2番目に大事なことを教えてあげるから、メモしなさい。それは『人格を鍛えろ』や。君が書く記事は、君の人格の複製に過ぎない。君がいい記事を書きたければ、君の人格を成長させる以外に道はない」
もちろん、人生で最も大事なことは、イエス・キリストを心の玉座に迎え入れることですが、これは強制できませんので。