深夜業務を終え、会社の後輩と一緒のタクシーになった時のこと。こういう時、私は「話す」ではなく「聞く」モードになります。「何でもいいけどこの際聞いておきたいこと、ない?」と尋ねたら、後輩は「山崎さんはどうやって『神の実存』を信じられたんですか?」と予想外の質問が返ってきました。「実存」なんて言葉をさらっと投げてくるあたり、さすが新聞社です。
数秒考えて返した答えは「ジャンプ、かな」でした。
20代前半だった1995年、若くて何も知らなかったなりに「キリスト教の神は確かに存在する」ことを理解して洗礼を受けた訳ですが、だからと言って「理論的に正しかったからイエスを受け入れた」訳ではありません。
理論的に正しいだけなら科学です。それは信仰の対象ではありません。
神とは、存在証明ができなくても確かに存在される方であり、理論や証明の「ずっと向こう側」で両手を広げて待っておられる方です。そういう意味では、その先に何があるかの確信もないまま、目と両拳をぎゅっと閉じて清水の舞台からジャンプする行為に、私の場合は似ていたかもしれません=写真右端が清水寺。
結局、神を信じて受け入れるというのは、理論でも肌感覚でも直感でもなく、最終的には「えいや!」な気がします。