「エリート」って言葉、日本では響きが悪いですよね。まずもって肯定的な文脈で使われることはありません。「あの人はエリート意識プンプンだ」「エリートづらしちゃって」という感じで。日本人は平等意識が強いから、政治家でも何でも大衆的と言いましょうか、親近感の湧く人が好まれるように思います。
「上から目線」にならないように注意したいのですが、あえて言いますと、国家であれ企業であれ、NPOであれ、どんな組織でも、それを支え、発展させるために、エリートが必要です。特に諸外国と国益を巡ってせめぎあう国家には不可欠です。ゆえに国家は「次代のエリート」を自ら養成する義務を負っていると、私は考えています。
元外交官で作家の佐藤優さんは、著書でよく「魚は頭から腐る」というロシアのことわざを引き合いに、国家がだめになるときは政治家や官僚から劣化していく、という趣旨の話をされますが、私も全く同感です。
国家というのは「代替不可能な組織」です。仮にソニーがだめになってもパナソニックがありますが、国家に替わりはありません。だからこそ、その運営を担う政治家、国家官僚には、エリート中のエリート、ベスト・オブ・ブライテスツが必要だと思います。
2013年に「国家の品格」の著者で数学者の藤原雅彦さんの講演を聞いた際、藤原さんの指摘に大きく頷きました。「この20年『改革』を連呼して日本は良くなったか? 日本に必要なのは改革ではない。エリートの再生だ」と。
藤原さんはエリートを「教養人であり、国家など『公』なるものに殉じる覚悟を持った人」だと定義していました。教養については「音楽、文化、芸術、古典、歴史など『役にたたない』ものへの圧倒的な知識」と説明していました。
私はもう一つ条件を加えたいと思います。「教養と覚悟に匹敵する、気高い人格、高貴な精神を備えていること」
時々、国家官僚がセクハラ発言をしたり、接待を受けることが問題になり、その都度彼らのエリート意識等が指摘されますが、そもそも、私の定義に照らせば、セクハラ発言をするような人は「気高い人格」を備えていないので、彼らはエリートではないということになります。高学歴で高い地位にある人に過ぎません。
私が鹿児島で出会った3人の総務省出身者は、いずれもこの要件を満たしていました。特に伊藤祐一郎知事は、自他共に認めるエリートでした。失言がいくつかあったので同意されない方も少なからずいらっしゃるかもしれませんが、あの人はあの人で、大変な気高さを持っていました。不器用なので表現が下手だったりであまり人に見せなかっただけです。
2012年の鹿児島知事選の最中、普段ガードの固い伊藤知事が、珍しく記者たちとの雑談に応じました。どんな文脈だったか忘れましたが、「私たちの話し相手は皆さん方だったんですよ」と話したのが印象的でした。伊藤知事ら旧自治官僚と全国紙の自治省担当記者が天下国家を巡って喧喧囂囂した、という意味に私は解釈しました。
私は、新聞記者も、良い意味でエリートでなければならないと思うのです。
医師とか弁護士とか、極めて高度な知性が要求される職業って、必ず国家試験がありますよね。要するに国家が「ある水準をクリアした人にしか“ハンドル”を握らせられない」と壁を作っている訳です。医師の場合、学会参加などの形で、知識のアップデートを常に要求されます。
新聞記者も、似たような面があると思います。「ペンは剣より強し」と言いますが、ペンは使いようによっては本当に恐ろしい凶器となります。だからこそ、それを扱う人には、高度な知性と人格が求められる。それが「エリートでなければならない」と考える理由です。特に新聞記者は、国家試験に比べずっと易しい入社試験しか経験しませんし、免許の更新もありませんから、自ら不断のアップデートを心がけることが不可欠だと思うのです。
念のために申しますが、私はエリートと大衆を対立するものとして考えていません。また権力対民衆という構造があった場合、記者は民衆側につくべきだというのが私の信念です。本来、新聞は、国家のような「力を持つもの」に対抗し得る存在、あるいは「力を持たざる」市民が異議申し立てする際によりどころとなる存在であるべきだからです。それが「第四の権力」と言われた(今はどうか知りませんが)マスコミの守るべきラインだと思います。私が強調したいのは「記者はその重責と社会の負託にふさわしい知性と人格を備えているか?」ということです。
私が仕事をするうえで、胸に刻んでいる聖書の一節を紹介したいと思います。
「あなたは黙っている人のために、すべてのみなしごの訴えのために、口を開くがよい。口を開いて、正しいさばきを行い、貧しい者と乏しい者の訴えをただせ」(旧約聖書「箴言」31章8、9節)
聖書には、私たちのペンが誰のためにあるのか、私たちが誰のために働くべきかが、はっきりと記されています。
小泉純一郎政権とそれ以降の自民党政権が進めた新自由主義的政策、グローバル経済への適応努力の結果、日本では社会の格差が広がりました。それと平行して、キャリア官僚、旧来のマスコミなどに「ルサンチマン」(怨念)が向けられるようになりました。「マスゴミ」などとこき下ろすのが、その一例でしょう。
私は、これはとても不幸なことだと思います。本来、社会的に弱い立場にいる人たちのことを最も考えなければならない人たちを、その受益者が憂さ晴らしに攻撃するというのは本末転倒だからです。「魚が頭から腐る」どころか、自ら腐敗を促進するような不幸な状況は、そろそろ終わりにしなければならないと、私は考えています。