名もなき偉大な詩人

 じわっ、と涙がにじむのを、抑えられませんでした。
 
 水野源三第一詩集「わが恵み汝に足れり」を読んでいた時のことです。
 
 一編引用します。

 私は
 
 家族
 
 人
 
 主のために
 
 何もできない
 
 主
 
 人
 
 家族の豊かな愛を
 
 ただ感謝するだけ
 
 ただ感謝するだけ
 

(「ただ感謝するだけ」P86)

 
 本書によると、水野さんは長野県の人。1946年、小4の時に赤痢による高熱が元で脳性まひになり、目と耳の機能以外の全身の自由を失いました。その5年後に一人の牧師を通してキリストと出会い、牧師のメッセージ録音やラジオ番組、聖書の通信講座を聞いて神の光を内側に蓄えていったそうです。
 
 28年もの寝たきり生活(詩集が出版された75年時点)や詩作を支えたのは、母うめじさん。うめじさんが「あいうえお」が書かれた表を指で追い、水野さんがまばたきするという方法で一文字一文字拾ったそうです。
 
 詩集の冒頭には、うめじさんと水野さんの写真が掲載されています。大変なご苦労をされた2人だと思うのですが、二人の澄んだ目に感動を覚えずにはいられません。

感性の信仰を養う

 澄んでいるのは、詩の方もです。近年は、困難な境遇にある人が他者(特に立場の弱い外国人や障害者)を迫害したり、拡大自殺(他者を巻き添えにした自殺)したりと、ドロドロした情念をそのまま表出する事件が少なくありませんが、水野さんの詩にはそういう情動がありません。石清水のようです。
 
 「病床六尺」じゃありませんけど、水野さんは身体は不自由でも、精神は自由に外を旅し、見聞きしたものや家族、神への愛を詩に綴ったのでしょう。水野さんという浄化装置を経由して生み出された詩の数々は、時代を超えて胸に染み入ります。
 
 今、私は日々のディボーションで旧約聖書の「詩編」を読んでいます。著者ダビデの、神に対する熱情的詩編を古代ヘブライ的表現とするなら、水野さんの詩は静的な、日本ならではの控えめな表現で、現代版「詩編」と言えます。
 
 信仰には、知性の信仰、感性の信仰、霊性の信仰があると言います。私は知性の信仰に偏りがちで、感性、霊性に乏しい。小難しい神学書ばかりでなく、水野さんの詩を繰り返し味わうことが感性の信仰を養う上で大切かもしれない、と思いながら詩集を閉じました。