長崎県島原市に住んでいたころ、猪原金物店に足しげく通っていました。知識人で文化人の店主さんがオープンな方で、刃物に関する知識と愛を惜しみなく語ってくれたのです。
そういう経緯から、私も刃物が大好きです。日々使う包丁は猪原さんから購入したものですし(良く切れるし、切れ味が長持ちする)、包丁はマメに研ぎますし(傍らで見ていた長男が研ぎを覚えた)、街を歩いていて刃物専門店を見つけるとしばらく陳列商品を眺めてしまうぐらいです。
「トマトを切った時、すっと刃物が入っていったら、研げてる証拠」と猪原さん。研がれた包丁で切ったトマトは型崩れしにくいですね。玉ねぎだと目に沁みにくい。刺身だと断面が鏡のように綺麗ですし、ドリップが出にくい(=旨味成分が失われにくい)。こちらもどうぞ。
料理人の前に研がれた包丁とナマクラ包丁があれば、彼/彼女は迷うことなく研がれた包丁を選ぶでしょう。無駄な力が要らないし、作業は捗るし、味も良くなるのですから。
なので私は、自分自身を(比喩的な意味で)研ぐことを、とても大事にしています。1年間に100冊の(それなりに負荷のかかる)本を読み、100本の映画を見るというのはその一例です。神さまがご自身の計画のために山崎太郎という〝刃物〟を用いようとされる時、最善の状態でいたいからです。
聖書にはこうあります。
「鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる」(旧約聖書「箴言」27章17節)
私にとって、主にある兄弟姉妹や、ノンクリスチャンでも様々な事を教えてくださる方は、みな〝砥石〟です。
ただ注意も必要です。良く切れる刃物は、それゆえに、人から「危険物」扱いされやすいのです。ノンクリスチャンはおろか、クリスチャンから怖がられたことも二度や三度ではありません(こういう時、心から「私の不徳の致すところです」と言いたくなる)。だから普段は〝鞘〟に納めないといけない。
聖書はこうも教えます。
「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです」(新約聖書「コリント人への手紙第一13章1節)
異言というのは(諸説ありますが)外国語のようなものだと思ってください。「愛」(愛嬌といってもいいかもしれませんが)という鞘がなければ、その知識や切れ味はむしろ害を及ぼすと、著者のパウロはんは言っています。
そういえば猪原さんも、いつも笑顔で私を迎えてくれました。苦行僧のような顔ばかりしている私とは対照的です。ああ、私も切れ味を追求するばかりじゃあいけませんね。