1991年公開のディズニーアニメ「リトル・マーメイド」を見ました。そこここに、米国人の意識に伏流するキリスト教が垣間見えたのが面白かったです。
父王トリトンが登場する場面。手にトライデント(三つ叉の槍)を持っています。槍というか杖が「王権の象徴」と捉えられていることが、よく分かります。日本だったら君主は「御簾の向こう」にいるか、君主と臣下の間に広い空間があることで権威が示されるところです。
旧約聖書・創世記49章10節にはこうあります。
「王権はユダを離れず、王笏はその足の間を離れない」
新改訳2017版からの引用ですが、新改訳第3版だと「統治者の杖」、口語訳だと「立法者のつえ」、新共同訳は「統治の杖」となっています。
契約=変更不可能なもの
人魚のアリエルは王子さまに近づくために魔女と取引をします。父王トリトンが後日それを知った時、杖から放たれるビームで(つまり力ずくで)契約書からアリエルの署名を消そうとしますが、王の力を持ってしても取り消せません。
ここからは、米国人が契約をいかに変更不可能なもので絶対遂行すべきものと考えているか、伺い知れます。
トリトンは自らアリエルの身代わりとなってワカメ? になります。キリストが十字架で私たちの身代わりとなり罪の呪いを受けたことを彷彿とさせます。
アンデルセンの「人魚姫」は悲劇で終わりますが、ハッピーエンド大好きなディズニーがそんなことをできるはずがありません。男女の熱いキスで映画が幕を閉じる、というのは今も昔も変わらぬ、アメリカ映画の文法というかお約束というか王道なのです。カタルシスがあるんでしょうね。