前回「5%に集中する」ことの大事さを説明しました。私の場合「5%」に含まれるのは、一に神さまとの時間、二に家族との時間、三に自分自身に対する時間です。順を追って解説します。
コデイロ師は言います。「あなたがどれだけ社会や会社で成功しても、あなたの信仰と家族を失えば、あなたの人生は敗北です」。全く同感です。私がローカル線の旅を続けてきたのも、社内で成功するより信仰と家族のための時間を大切にしたかったからです。
そんな私にとって、最優先の時間配分先は「神さま」です。
具体的には、日々お祈りしたり、ディボーションをしたり、日曜の礼拝に毎週通うことです。
祈りとは、見えざる神との対話です。対話なので一方通行ではありません。神に語りかけると同時に、神のさやけき御声に耳を傾けます。ラジオ局を想像してください。こちらの心の針をJBC(ジーザス・ブロードキャスティング)の周波数に合わせると、DJジーザスの声が聞こえてきます。古くは葉書やファクス、今ならネットでリクエストができるように、こちらの声も聞いてもらえます。お祈りというと、苦しい時の神頼み、困りごとや願い事を聞いてもらうというイメージがありますし、事実そうした祈りをすることも多いですが、小さな決断から大きな決断まで、DJジーザスの御心を尋ね求めることもします。
今風に言うと、天にいる神へのアップロードと、神からのダウンロードがペアになったものが祈りです。アップロードで最も多いのはリクエスト(願いごと、頼みごと)と賛美・感謝、ダウンロードで最も多いのは助言、確信、指針でしょうか。
親子の関係を例にとると分かりやすいかもしれません。小さな子供が「お父さん、これが必要なんだけど」「お父さん、ちょっと手助けしてくれない」「お父さん、AとBで悩んでいるんだけどどっちがいいかな」と相談すれば、お父さんは子供の自由意志を最大限尊重しながらベストな助言をくれるでしょう。決して堅苦しいものではありません。
ディボーションは、静かな場所で聖書を学ぶ時間です。
クリスチャンとは、むろんイエスを救い主として受け入れた人のことですが、私はもう一歩進めて、「日々聖書の言葉と聖霊によって取り扱われ、養われている人」と定義したいと思います。
なぜ聖書を読むのか。それは聖書が、神さまが人間に向けて書いた唯一の書物だからです。以前、漫画「君たちはどう生きるか」がベストセラーになりましたが、聖書にこそ「人間はどう生きるべきか」の、唯一確実な答えがあるのです。
イエスを受け入れた瞬間から、それぞれの人の心に「聖霊なる神」が与えられます。聖書からさまざまに学び、聖霊なる神に扱われることによって、聖書が言うところの古い自分、肉の自分、つまりクリスチャンになる前の自分が少しずつ失われ、新しい自分、霊の自分が養われます。
手入れされなくて、藻や魚の老廃物だらけの、臭いにおいを放つ水槽を想像してください。泳いでいる魚を殺さずに水を替えようと思ったら、古い水を少しずつ新しい水に入れ替えるしかないですよね。聖書を読み聖霊に取り扱われるとは、そのような行為であり、クリスチャンとして成長・成熟するのに欠かせない作業なのです。
念のために申しておきますが、クリスチャンになり、成熟が進んでも、罪を犯さなくなる訳ではありません。そのような人は地上に一人もいません。人間が人間である限り、罪から切り離される訳ではないのです。ただ成熟が進むほど、罪には敏感になりますし、それを避けようとします。
八幡浜時代は受け持ち範囲が大変広く、運転時間が非常に長かったので、車内にいる時間を有効に使いたいと思って、中川健一牧師が主宰している「ハーベスト・タイム・ミニストリーズ」のWebサイト経由で、オンラインメッセージを聞いていました。非常に勉強になりました。
――と書けば、ものすごく立派で敬虔なクリスチャンのようですが、つい忙しさにかまけてお祈りや聖書を読むことをさぼってしまいます。まだまだ未熟なクリスチャンです。
余談ですが、2006年にハワイのニューホープ教会を初めて訪ねた時は、信徒から口々に「毎日ディボーションをしているか?」「毎日しているか?」と尋ねられ、たじたじになりました。
毎日できているかどうかはともかく、神さまとの時間は私のすべての基盤であり、ここが狂うとすべてがおかしくなるので、私には絶対欠かすことのできない時間です。
教会にもよりますが、ほとんどの教会は日曜の午前中に礼拝があります。1~2時間でしょうか。主に①賛美歌を歌う②牧師のメッセージ(説教)を聞く③献金を捧げる④祈る--から成ります。
①③は神へのアップロード、②はダウンロード、④は両方だと考えてください。歌や献金(旧約時代はこれが動物の生贄だった)を通して神への感謝を表し神の栄光をたたえるす。牧師のメッセージを通して聖書の原理原則をさらに深く学ぶ。信徒それぞれが抱える悩みや課題について心合わせて祈り、励まし合う。これが礼拝です。一人ひとりの信仰は小さく弱いですが、集まることによって大きな炎になり、また消えそうな信仰に新たな力を送る訳です。
これまた念のために申しますが、地上に「理想の教会」はありません。どの教会も問題を抱えています。なぜなら、そこに集まる人が不完全な人たちばかりだからです。神はそのようなものとして人間を創造されました。
それでも心を合わせ、互いに支え合うようにと聖書は教えますし、信仰の友とだけ持つことができる深い交わりの時間や、心を一つにした神への賛美は、教会以外の場所では絶対に得られない喜びを与えてくれます。