長崎県大村市に「新生の里キリスト教会」というプロテスタント教会があるのですが、私たち家族は一時期、そこに通っていました。まだ3人の子どもが小学校や幼稚園のころです。
ジャック・ギャロット牧師がある時、私たち夫婦に教えてくれました。「最低限の衣食住さえ満たせば、子育てに必要なのはたったの二つです。子どもが『自分は無条件に愛されている』と感じられることと『自分の両親は互いに愛し合っている』と感じられること」。名言ですね。
無条件の愛というのは、キリスト教に根ざした考え方です。キリスト教の神は「父なる神、子なる神、聖霊なる神の三位一体の神」ですが、父なる神は、愛する子どもたち(人類のことです)を罪と死から救うために、自らの子なる神(イエスのことです)を地上に送り、人類の犯したすべての罪の身代わりとして十字架上で罰したと、聖書は教えます。
太郎さんとエイミーさんはとってもおりこうで愛されているからイエスが身代わりとなり、次郎さんとフランソワさんは出来が悪くて愛されていないからイエスによる救済を受けられなかった、というのではありません。ルックスがよいか、財産を持っているか、高学歴か、有名化など、こちらの条件には一切かかわりなしに、全人類を無条件で愛するがゆえに、私たちにイエスを与えてくださった、というのがキリスト教の考え方です。
私たちの子育ても、最初は「無条件の愛」なんです。赤ちゃんがそこにいてくれるだけでいい、子どもの出来、不出来なんて愛情を注ぐのに一切関係ない。存在そのものが愛おしく、「愛すべき存在」と丸ごと受け止める。端的に言えば「あなたがそこにいるだけでいい」「あなたがいてくれるだけでうれしい」「あなたは生きているだけで素晴らしい」ということです。聖書的表現では「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(旧約聖書「イザヤ書」43章4節)となります。
ところが、早くて小学校高学年、遅くても中学生になると、世間から「条件付きの愛」が忍び込んできます。映画「スタンド・バイ・ミー」では、将来を嘱望された兄に比べ、目立ったところのない弟は家族からあまり愛されていないという設定になっていますが、あれです。子どもの出来具合で愛する量が変動するんです。
公立校だと、小学校の間はあまり児童のランク付けをしませんが、中学校に入ると試験の成績という形で生徒が順位付けされますよね。そして、いつの間にか子どもの成績に連動して愛情量が変化するようになるんです。別に学業じゃなくても、スポーツができるかどうか、クラスで人気があるか、でもいいんです。
要するに、カタログ的に「この子にはどんなスペック(機能)があるか」で、親も周囲も人を評価づけするようになる。勉強ができて、スポーツもできて、会話がおもしろくて、見栄えもいい子どもほど先生の注目を集め、その正反対の子は……という感じです。
高校の前を通ると「ウチの学校の○○君が☆☆大会で優秀な成績を収めました」という横断幕や「東大合格者○人」などの懸垂幕を見かけることが、珍しくなりました。あれも要するに社会が「スペック」で評価するので、学校側が必死に業績をアピールしているわけです。
かく言う私も、長女の高校受験の時に、随分「条件付きの愛」になってしまった気がします。自宅からそう遠くない場所にトップクラスの県立高校があるので、そこに進んでほしかったのですが(この時点で「スペック」で見ている)、長女の志望校はそこから一つ下がり、受験前にさらに一つ下がりました。
無事その高校に合格できてほっとしましたし、その高校ですら私の通った高校よりずっと偏差値が高いですし、何より楽しそうに学校に行ってくれたので、肩の力が抜けました。「成績や、どこの大学に進むかはとやかく言うまい。元気に、明るく、楽しく学校に行ってくれればそれでよし」という心境になれたのです。中学生の長男には「お前の行きたい高校に進め」としか言っていません。
でも、本来、テストって、他人と自分を比較するために存在するんじゃないんですよね。自分がどのぐらい理解できているか、自分がどのレベルにいるかを客観的に知るためにあるはずです。点数は大事ですが、点数や、学校の〝ものさし〟で評価できるのは、その人の一部に過ぎません。
それに「スペック」って大変なんです。愛され、注目され続けるには努力し、競争し、勝ち続けないといけませんから。家庭環境などの問題で、そうした土俵にすら上がれない子どもは、反社会的な行動で「自分を見て!」と逆説的にアピールするしかないんですから。
「愛されたい」って、子どもに限らず、人間の根源的な欲求だと思います。人間に本当に必要なのは、ギャロット師が教えてくれように、「無条件で人を愛し、愛されること」だと思います。どうしても、世間的な価値観に取り込まれるのでそれが難しい時がありますが、自戒を込めて繰り返したいと思います。人間は、特に子どもは無条件で愛されるべきだと。子どもの情緒タンクに無条件の愛を注ぐことは、私にとってとても大切な「5%」なのです。