絶滅危惧種牧師と消滅可能性教会

 牧師は極めて希少な人的資源です。そもそも成り手が少ない。求められる能力がある水準まで達するのに、かなりの時間を要する。
 
 後者については説明が必要でしょう。牧師には大きく二つの能力が求められます。
 
 1点目は教師としての能力。聖書の教えに通じていることと、それを相手に届く形で伝える能力が必要です。
 
 2点目は牧者としての能力。未信者にキリストを伝え、信者を育て、一人一人のために祈り、必要に応じてケアし、教会組織をマネジメントして発展させていく。
 
 牧師には(卒業していれば)神学校や(所属していれば)教団があるとは言え、企業のOJTや研修の充実度に比べれば、「日常的に訓練を受けられる度」が見劣りしてしまうのは、致し方ないことでしょう。

拡大期から縮小期へ

 管見の限り戦後日本では、70~80年代が最も信者数が伸びた時期だと思います。その世代が結婚して子世代が教会に通うようになり--という形で、各地に教会が広がりました。
 
 日本の生産年齢人口は1996年がピークです。実質賃金も出版業界の販売額も96年がピーク(私が入社したのも96年)。つまり日本は、以来ずっと縮み続けている訳です。
 
 プロテスタント界も例外ではあり得ません。政令指定都市ですら牧師がいない教会が増え、牧師1人が複数教会をマネジメントする時代になっています。
 
 21世紀も2025年で第1四半期が終わります。プロテスタント界もそろそろ、持続可能な、21世紀の教会像を明確にしないといけないのではないでしょうか。

オンライン礼拝は21世紀の柱となり得るか?

 私はオンライン礼拝のメリットは否定しませんが、中心になるとは考えていません。ネットにはレイテンシー(わずかな遅延)があるからです。賛美歌や使徒信条を全員が遅延なしに唱和するのは不可能でしょう。
 
 人様に向けて話している間に「実は私が言いたかったのはこういうことだったんだ」と電球がピカッとしたり、軌道修正されることって、あるじゃないですか。ビデオメッセージでは、そういったことは起きません。
 
 オンライン礼拝やビデオメッセージの活用は今後も広がるでしょうが、補完的なものにとどまると思います。

教会=会堂でなくたって

 縮小ニッポンの時代にリアル礼拝を維持するため、私は①教会堂から家の教会への移行②プロ信徒の育成--が不可欠だと考えています。
 
 信者が献金を積み立てて土地を取得し、教会堂を建て、牧師を経済的に支えながら何十年もかけて債務を返済し、牧師は建物の管理人として教会に住む--という流れは、拡大期のモデルでした。
 
 教会堂にこだわらなければ、土地代も建設費も維持費も管理人も不要になる。代わりに信者や牧師の自宅、公民館などを1週間の中のある時間帯だけ会堂にする。これが①です。十字架ぐらい、ドアに掲げたいですが。
 
 冒頭で、牧師の役割には教師と牧者の側面があると述べました。これまでは1人がその両面を担っていましたが、今後は、聖書にある程度精通したプロ信徒と、人々のケアを担うプロ信徒が複数で分担する。これが②です。
 
 神学校、教団、牧師の役割を「①と②を全面的に後押しすること」と再定義できれば、今後75年は、教会は存続可能ではないでしょうか。既に一部でそうした取り組みは始められていますが、個々の動きに頼らずプロテスタント教界を挙げて価値観と動きを変えるなら、早いに越したことはありません。