ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか

2歳で失明

 個人的な話で恐縮ながら、まずは私個人の生い立ちから始めたいと思います。
 
 パジャマのズボンなどにゴムを通すための、太い、先が丸くなった針がありますよね。おそらく、ゴムの伸び縮みが面白かったのだと思うのですが、2歳の私がそれで遊んでいるうちに、誤って針が目に当たりました。
 
 「ぎゃー!」というものすごい叫び声で近くにいた母がアクシデントに気づき、病院に連れて行ってくれましたが、左目はほとんど見えなくなりました。
 
 そういう訳で私は、物心ついたときから、右目しか見えません。幸い、右目の視力はずっと1.5をキープしています。
 
 大学3年生。そろそろ就職活動を意識するころでした。当時読んだ本に「自分しかできない仕事は何かを考えよう」とありました。なので、就職先を考えるに際しては「目が見えないことを生かせる仕事は何か」が起点となりました。
 
 そのころ私は、時々ですが、知的障害児の入所施設に、子どもの遊び相手をするボランティアに行っていました。私はそこで二つのことを感じていました。一つは「どうして人は、障害者を隔離するのだろう。日本の中に〝外国〟を作るようなものじゃないか」ということでした。施設は市街地からとても離れた所にあったのです。もう一つは「私は障害者ではないが、健常者とも言い切れない。ちょうど両者の中間に位置する存在だ」ということでした。
 
 その経験からたどり着いた結論が、新聞記者の仕事でした。「両者の中間に位置する存在だからこそ、新聞というメディアを使って両者の橋渡しとなって、日本の中の外国を解消したい」と考えたからでした。
 
 京都産業大学から全国紙に進んだ人は、当時はいなかったように記憶しています。後に知ったのですが、全国紙に入社するには関西の場合、関関同立以上の大学を出ていることが暗黙の了解だったようです。
 
 仕方ないので、私は、立命館大学の就職課にしれっと入り込んで、立命館の諸先輩が残した資料に必死に目を通して、ノウハウを学びました。新聞社の入社試験をサポートする予備校のような学校にも通いました。
 
 私が就職試験を受けた1994年は、バブルがはじけ「就職氷河期」という言葉が吹き荒れたころでした。各新聞社が採用数を絞るなか、私の就職戦線は全国紙が全滅、地方紙も最終面接までいくつか残ったものの、最終的にはすべて落選、という結果に終わりました。
 
 友人たちが名の知れた企業や官庁から内定を得ていく中、新聞社一本に絞って就職活動をしていた私は本当に焦りました。遅まきながら新聞社以外の民間企業も受けてみましたが、後の祭りでした。

原点の一つ、阪神大震災

 1995年1月、古里・神戸を阪神大震災が襲います。「ゴゴゴゴー」っと、地下鉄がこちらに向ってくるような音で目覚めました。私が住んでいた京都は、震度5だったように記憶しています。
 
 テレビをつけると「東海地方で強い揺れ」というテロップが流れました。「それなら関係ない」ともう一度寝ました。再び目覚めてから、念のために神戸の実家に電話すると、母親がパニックになっています。東海地方で地震なら、揺れは京都の方が大きいはず。そう思い込んでいる私は「大げさな」と思いながら、電話を切りました。冷たい息子です。
 
 テレビをつけて絶句しました。しばらく考えてから、原付バイクで神戸に戻ることにしました。もちろん、道路という道路は大渋滞。ただ、原付バイクなので間を縫って進むことはできました。途中、トイレを借りに立ち寄った小学校では、いくつもの遺体が、白いカーテンにくるまれているのを見ました。国道の中央分離帯では、老夫婦が放心状態で座っていました。「終戦直後もこんな光景だったのだろうか」「日本人が戦後50年かけて営々と築き上げてきたものを、たった数十秒の地震が崩してしまった」との思いが頭をよぎりました。震災では、小中学校時代の同級生と、中学1年の時の担任が亡くなりました。
 
 8時間かけて実家に帰り、家族の安否を確認しましたが、再び絶句しました。2階の両親の寝室は、たんすなどの家具が倒れしっちゃかめっちゃかだったのです。母親は、1階のコタツで寝ていたので難を逃れました(父は仕事で不在でした)。
 
 その後、一度京都に戻って準備を整え、被災地救援ボランティアに加わりました。市外から続々とボランティアが来てくれているのに、被災していない神戸市民が何もしなくてどうする、と思ったのです。「ピースボート」というNGOが「デイリーニーズ」という瓦版を発行していたので、そこに飛び込んで記者、編集者、配達人の真似事のようなことを2週間しました。
 
 書きかけの卒論を完成させるために京都に戻り、就職が決まらないまま、実にみじめな気持ちで卒業を迎えました。
 
 就職浪人(要するに無職)としてもう一度新聞社を受けると決めたものの、採用が約束されている訳でもなし、日々、焦る気持ちや不安を抑えながら、論作文や時事問題、英語の勉強に明け暮れました。「勉強のしすぎでおなかが減る」という経験をしたのは、後にも先にもこの時だけです(脳は大量のエネルギーを消費するのです)。確か当時は、5月ぐらいから「セミナー」という名の青田買いが始まっていたのですが、セミナーの成績が思わしくない度、胸をかきむしったものです。

神と出会う

 さて、私は就職浪人の傍ら、家から歩いて15分ほどの京都生協でレジ打ちのバイトをしていたのですが、親しくしていたバイトの後輩の女の子がある時、「そんなに不安なら一度教会に行ってみない?」と、私を近くのキリスト教会に誘ってくれました。その教会--京都一麦(いちばく)教会というオーソドックスな「福音派」の教会--は私の下宿先とバイト先のちょうど中間にあり、彼女は家族でその教会に通っていました。
 
 当時の私はクリスマスも初詣も、という典型的な日本人でしたが、神さまでも何でもいいからすがりたいという気持ちが50%、かわいい彼女とお近づきになりたいという下心50%で、私は初めて教会の門をくぐりました。
 
 信徒の皆さんは、何だか、目に見えない清らかなオーラのようなものをまとっていました。賛美歌なんて歌ったこともありませんでしたが、私の耳には心地よいものでした。私はすがるような気持ちと下心を抱えたまま、その後も教会に通いました。
 
 ある時、私は人生を決定づける一つの言葉と出会います。新約聖書「ヨハネの福音書」の9章。
 
 ここでは、目の見えない人を前に、弟子たちが師匠であるイエスに問います。先生、彼が盲目に生まれついたのは誰の罪によるものですか、彼ですか、彼の両親ですか、と。
 
 イエスは答えます。誰の罪によるものでもありません、神のわざが、この人を通して現れるためである、と。
 
 ガーン。未だかつて、私の目が見えないことを、そのように説明した人はいませんでした。なら何ですか、私の目が見えないのも、神のわざが私を通して現れるためですか? と思ったのです。
 
 そこで私は、信じてもいない神にこう訴えました。
 
 「私が新聞記者になり、新聞記者として障害者と健常者の橋渡しになることが『神のわざの現れ』なら、私を新聞記者にしてみなさい。新聞記者になれたら、あなたを信じていい」
 
 今思うと、赤面の至りです。当時は若かったのです。
 
 その後本格化した就職試験では、ある全国紙だけがトントン拍子に進みました。先に書いたように「関関同立でなければ全国紙には入れない」と思っていましたので、「これは私の実力ではない。人智を超える力が働いたのだ」と信じることは難しくありませんでした。私は潔く白旗を揚げて、洗礼を受けました。1995年10月のことでした。