松山に住んでいたころ、妻は「シオン朝美教会」という、特定の教団に属さない教会にお世話になっていました。Webサイトもない、SNSもやってない、実に割り切った教会でした(Google検索しても出ません)。信者は少数。妻より若い人は皆無。私は時々顔を出す程度でしたが(単身赴任中でしたので)、大変温かい教会でした。
シオン朝美教会の牧師さんが、佐藤彰「新しい旅立ち」という小冊子を送ってくれました。福島第一聖書バプテスト教会での礼拝メッセージをまとめたものです。
その中に興味深い一節がありました。
<私(※佐藤牧師)は神学校時代、色々な牧師を訪ね、先生方の教会形成の理念等について、しつこいほどに訊いて回ったことがあります。これはと思う先生方には、ある共通点がありました。それは「神のご臨在」でした。神のご臨在があるということは、教派、年齢、形態を問わず、非常に重要なことです。祈りつづけると、神のご臨在に触れます>
「神のご臨在」。非常に重要なワードです。
佐藤牧師が「これは」と感じた牧師からは、神のご臨在が感じられた。そのような牧師がいる教会にも、神のご臨在が感じられた、ということなのでしょう。
確かに、私がお世話になってきた牧師の中にも、神のご臨在が感じられる方がいました。一人の牧師は「礼拝には『いのち』がなければならない。信徒はその『いのち』によって養わなければならない」と表現していました。「いのち」は神のご臨在と同義でしょう。別の牧師は、「たとえ非信者であっても、この教会に足を一歩踏み入れた途端、聖霊なる神の存在を感じられる教会にしたい」と語っていました。アーメン。
1回より10回、10回より100回
私は聖書を字義通りに(書いてある通りに素直に)解釈する福音派ですが、かなり理詰めで考える(=面倒臭い、怖がられる)人間です。
祈りについて、例えばこのように考えます。
「ある祈りについて、1人が1回祈った時と、100回の時と、1万回の時に、結果に違いは出るのか。1回では叶わなくても1万回なら叶うのか。それなら祈りは量の問題なのか。同じ祈りを10人が10回祈った時は、100人が100回祈った時はどうなのか」
私個人は、量と結果の間に正の関係があるとは考えていません。「関係がある」とするなら、「祈りが叶わないのは私の祈りが足りないからだ」となるからです。主権者は神であり、神の御心に適った祈りだけが叶うという考えです。
ですが、この小冊子を読んで気づきました。祈り続けることは、神のご臨在に触れることである、と。1回より10回、10回より100回祈る方が、自らを神により近づけていくことになる。
すべての祈りを「……以上が私の願いです。しかし主よ、あなたの御心通りになさってください」と締めくくって1回限りで終わらせるような私のような人間から、神のご臨在が感じられることはこの先もないと思いますが、もう少し祈る人間、霊的な人間になりたいと、心から願います。